2009年03月10日

女郎が架けた「太鼓橋」

中山道倉賀野宿には、「本陣」が一つ、「脇本陣」が二つもある。

「本陣」は大名や上級武士の宿泊所、「脇本陣」は宿泊が重なった時などに使う予備宿泊所である。

それが3つもあるというのは、いかに倉賀野宿が大きな宿場であったのかを示すものである。

写真は「脇本陣」の須賀喜太郎家、道を挟んだ向かい側にもうひとつの「脇本陣」須賀庄兵衛家がある。
「本陣」は勅使河原家跡、現在、ベイシアマートのある場所である。

当然、大名以外にも倉賀野宿で宿泊する旅人は多いわけで、享和三年(1803)の記録では、64軒もの旅籠(はたご)があったという。
これら旅籠の大半が、飯盛女という名の女郎を置いていた。

中町の信号を東に100m程行くと、道の下を細い道が横切っているのだが、車に乗っていると気が付かないかも知れない。

この細い道、昔は倉賀野城の堀で、板橋が架かっていたが、夕立などによる出水でしばしば破損して、往来を妨げたという。

そこで、旅籠の旦那衆が相談の上、金二百両を出し合って石の「太鼓橋」に架け替えた。
だが、この二百両という金、実は女郎達から拠出させたものであったのだ。

女郎達が決してあり余る金を持っていた訳ではない。
それは、遠く越後などの百姓家が金に困った揚句、わずかな金で売られてきた年端もいかない娘が、からだを売ってコツコツと蓄えた金であった。

倉賀野宿「藤浪屋」という旅籠を営んでいた、木部白満(きべ・つくもまろ)という人の生家に、「飯売下女年季奉公人請状」が残っている。
これは、越後国小千谷村の喜左衛門の娘「ちい」が、16歳で身売りされた時の証文である。
拾い読みをしてみよう。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

この度、よんどころ無き金子要用にて、諸親類相談の上、御当家へ連れ来たり・・・(略)
相きめの儀は、当申(さる:1824年)の八月より、来る卯(う:1831年)の二月まで、中六年六ヵ月、給金十八両と相きめ・・・(略)
万一、この者取逃がし、駆け落ちいたし候はば、早速たずね出し、相渡し申すべく候。
もし、行方相知れ申さず候はば、代り人なりとも、給金なりとも、思し召し次第に遊ばし申すべく候。
年季中、勝手がましく御いとまなど申し請けまじく候。
万一この者、頓死、病死、けが、あやまちにて、不慮に相果て候はば・・・、当国役人立会いの上、貴殿檀那寺におとり置き、後日に、法名お贈り下さるべく候。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

死んでも、故郷へ戻ることはできなかったのである。
年端も行かぬ娘の心細い気持ちはいかばかりかと、想像するに余りある。

「高崎の散歩道 第二集」の中に、倉賀野町にある、他国出身の娘の墓を調査した興味深いデータがある。

出身地を分類すると、26人中19人が越後出身。
没年齢を分類すると、
12~19歳が5人、
20~25歳が7人、
26~29歳が2人、
平均没年齢は、21歳3か月だという。

だが、もしかすると、墓に入れるだけ幸せだったのかも知れない。

ベイシアマート向かいの細い道を北に入ると、「九品寺(くほんじ)」がある。

この境内片隅に、飯盛女のものと言われる墓がある。

そのひとつに、こんな文が刻まれている。

皈元 教滝信女
寛政十一巳未年 四月廿二日 北越後長岡産 字は滝
幼年より反哺のために当初のちまたに奉公し罷在
疾して行年二十にして身まかりぬ
死生の風に散りぬ 念悼みて是に立碑するもの也
施主 日野金井 和泉屋主人

女郎達の辛い涙で架けた「太鼓橋」。
忘れてしまっては、何とも情が無い。
せめて、欄干だけでも復元して、謂れを後世に伝えたいものである。


(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」「続・高崎漫歩」)

【太鼓橋】


【九品寺】


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Posted by 迷道院高崎 at 21:42
Comments(4)倉賀野
この記事へのコメント
倉賀野は高崎で最も昔の風情が濃く残っている地域かも知れませんね。
九品寺は年に1、2回程しか行きませんが確か本堂の幕に葵の紋があったような・・・。
徳川と何か関係があるのでしょうか・・・。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年03月10日 22:42
>弥乃助さん

そうですね。
倉賀野は、今からでも宿場町の復元が可能な感じがします。
あとは、価値観の問題ですね。

九品寺の葵の御紋は、気がつきませんでした。
文献では、徳川との関係は書かれていませんが、何かあるのかも知れませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年03月11日 07:06
然る人から実に興味深い貴重なお話を頂きました。
皇女和宮東下りの際のあらましです・・・・

然る人とは・・・・

然る人です・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年03月11日 07:58
>昭和24歳さん

然る人ですか・・・。
うーん、然る人・・・?
然る源氏?(光源氏のダジャレです。)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年03月11日 21:44
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女郎が架けた「太鼓橋」
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