2016年01月24日

駅から遠足 観音山(60)

なんと!森村酉三がつくった白衣大観音原型像の模型が、三体あったというんです!

「高崎市制百年展」をきっかけにそのことが明らかになり、慈眼院で供養を行ったという記事です。

この時は、慈眼院二代目住職(開基からは二十八代目)の橋爪良恒師や、一路堂を設計した水原徳言氏もご存命だったんですね。
今お会いできたら、お聞きしたいことが山ほどあるのですが・・・。

記事では、「模型は大観音の原型としてつくられたもの」とありますが、一体がおそらく森村酉三作の原型像で、あとの二つはそのレプリカだと思われます。
橋爪良恒師が書かれた本によれば、慈眼院所有の一体も、もともとは井上保三郎が持っていたもので、戦後になって井上家本宅の改築をする際、房一郎氏から寄贈されたものだそうです。
たぶんこれが原型像なのでしょう。

当時、良恒師はこの他に二体の模型があることは知らず、昭和五十年代の初め、横田忠一郎氏からその話を聞いて知ったということです。

ただ、どこにあるのかは分からずにいたのですが、良恒師が二体目の原型模型と対面するきっかけは、新聞で歴史的建造物を紹介していたさんとの出会いだったそうです。
さんからの話で、かつて井上工業で仕事に携わっていた方のお宅に原型模型が残っていることが分かり、これが縁で「高崎市制百年展」の会場に二体の原型模型が展示されることとなりました。

さらに、この新聞記事を見た三体目の原型模型の所有者が名乗り出てきたことにより、「高崎市制百年展」の会場には、期せずして三体の原型模型が並んだという訳です。

原型模型は、記念品として配ったようなものではなく、大観音像を建設するために必要なものだったのです。
ひとつは、施工のための実施設計をするため、設計担当者に渡されました。

これが、設計者・石川文二郎という人に渡された原型模型です。

普段は厨子に納められていますが、写真を撮るならと、取り出してくださいました。

首のところが欠けていますが、これは文二郎氏が自宅と現場の間を持ち運んでいたからだそうで、当時ですから車もなくて、自転車やバイクで持って行くので、振動で欠けてしまったらしいと仰っていました。

文二郎氏は、明治二十四年(1891)の高崎生まれです。
学校を卒業して井上工業に入社すると、保三郎から建築を学問として学ぶことを勧められ、学費も出してもらって東京新宿の「工手(こうしゅ)学校」(後の工学院大学)建築学部に入学します。

大正二年(1913)に卒業して、再び井上工業で設計及び工事監理の仕事に従事し、関わった主な建物は、「群馬会館」「日本製粉高崎工場製粉工場本館」「旧陸軍岩鼻火薬製造所」などです。

中でも「日本製粉高崎工場」の純木造5階建て建屋は、木造としては日本建築史上二番目に階数の多い、難しい建築物なのだそうです。

残っていれば、貴重な歴史遺産であったはずですが・・・。

(Hさんよりのコメント:日本製粉高崎工場の設計は、文二郎氏でなく木子七郎氏とのことです。)
1月24日追記

その難しい設計をこなした文二郎氏だからこそ、今まで誰もやったことのない、世界一のコンクリート製大観音像の設計を任されたのでしょう。

しかし、いかな文二郎氏でも、世界初の大観音像の設計は、とてつもなく難しいものだったようです。
ご子息がこう回想しています。
夜中、というより明け方近くに便所に行こうとすると、親父の部屋の灯りが点いている。
そっと覗くと、模型にメジャーを当てては図面に移し描いている。
それを何回も何回も繰り返していました。」

そして工事に入れば、市内から観音山まで自転車やバイクで通って、現場監理をするという毎日でした。
そんな心身の無理が重なったためか、文二郎氏は結核に冒されてしまい、白衣大観音の開眼式を2週間後に控えた昭和十一年(1936)十月八日、帰らぬ人となりました。
享年46歳の若さでありました。

文二郎氏は生前、「大旦那に足を向けて寝られない。」というのが口癖だったそうです。
保三郎翁に「工手学校」へ出してもらった恩義を、深く感じていたのでしょう。
その保三郎が決意した白衣大観音建設という大工事に、文二郎氏はまさに命を懸けて報恩したのです。
きっと空の上から、開眼式の様子を嬉しそうに見ていたに違いありません。

さて次回は、もう一つの原型模型を託された人物のご紹介です。





同じカテゴリー(◆高崎探訪)の記事画像
史跡看板散歩-100 奥平城跡
史跡看板散歩-99 天久沢観音堂
史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑
史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(2)
史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(1)
史跡看板散歩-96 神流川合戦古戦場
同じカテゴリー(◆高崎探訪)の記事
 史跡看板散歩-100 奥平城跡 (2018-07-15 07:01)
 史跡看板散歩-99 天久沢観音堂 (2018-07-08 07:13)
 史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑 (2018-07-01 07:16)
 史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(2) (2018-06-24 07:27)
 史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(1) (2018-06-17 07:26)
 史跡看板散歩-96 神流川合戦古戦場 (2018-06-10 09:08)

この記事へのコメント
日本製粉高崎工場は木子七郎の設計です。木子は現代日本建築教育の嚆矢木子清敬の子、また、兄は木子幸三郎です。今の愛媛県庁は七郎の設計です。萬翠荘も七郎の設計です。
Posted by H氏  at 2016年01月24日 07:55
>Hさん

え!そうなんですか?
工学院大学建築学部同窓会発行の「工手学校-日本の近代建築を支えた建築家の系譜-工学院大学」には、そう書いてあったのですが・・・。

教えて頂き、ありがとうございました。
さすが、Hさん!
これからも、いろいろ教えてください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2016年01月24日 08:04
工学院の件は工学院大学建築系学科同窓会誌「NICHE」2007vol30「輝かしき先輩たち⑧」高崎観音を実施設計した石川文二郎 類洲環」に詳しく載っていますがそれを参考にしましたか?これは私が類洲さんに協力して書いた物です。因みに群馬会館は大隈講堂、群馬県庁舎を設計した佐藤功一の設計です。
Posted by H氏  at 2016年01月24日 08:23
>Hさん

「NICHE」に掲載されている文と、「工手学校-日本の近代建築・・・」に掲載されている文は全く同じものですね。
少し長くなりますが、引用してみます。

『文二郎は、井上工業で、設計および会社が請負った施工の工事管理に従事する。主な現場には「群馬会館」「日本製粉高崎工場製粉工場本館」「旧陸軍岩鼻火薬製造所」などがある。
「群馬会館」は・・・設計:佐藤功一・・・。
(略)
「日本製粉高崎工場製粉工場本館」は、公式の記録によると「設計者:不詳、施工:大竹組・浪速組」とある。
文二郎は、施工の二社から乞われてこのこの難しい現場を見ていたようだ。』

という記述から、日本製粉は文二郎の設計だと思ったのですが、いま改めて読むと、たしかに設計したとは書かれていませんね。
「主な現場には」とか「現場を見ていた」という表現ですから、私の早とちりのようです。

日本製粉の設計者は、木子七郎だというお話ですが、設計図にでも名前が書かれていたのでしょうか。
ますます、Hさんにお会いして、いろいろ教えてほしい気持ちが募っているのですが・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2016年01月24日 15:18
日本製粉高崎工場の件は(当時)前橋工業短期大学杉澤助教授(故人)、星助教授(現在前橋工科大学学長)と共同で日本建築学会に論文提出、及び発表しました。(高崎旧市庁舎も)今度その論文及び研究内容も見て頂きたいと思います。
Posted by H氏  at 2016年01月24日 21:23
>Hさん

ありがたいです!
楽しみにしています。
よろしくお願いいたします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2016年01月25日 05:54
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
駅から遠足 観音山(60)
    コメント(6)