山寺駅から山形駅まで、仙山線で20分くらいです。
まずは、西口にある山形城址「霞城(かじょう)公園」へ向かうべく、東西自由通路を歩いていて「おーっ!」と思ったのが、天井のステンドグラス。
名産品「さくらんぼ」や、今日登ってきたばかりの「山寺」の風景など、山形自慢のものが格好良くあしらわれています。
すんばらしいですね。
すんばらしいといえば、自由通路の先にある官民複合ビル、「霞城セントラル」の24階展望ロビーからの眺めです。
晴天に恵まれたこの日は、雪を戴いた月山が望めました。
こちらは、これから行く予定の「霞城公園」です。
1階フロアに降りると、こんなのがありました。
鍋の中にテーブルとベンチがあって、人間が「いも煮」の具になれるようになってます。
「いも煮」ながら、ニクい演出です。
ニクいといえば、この「霞城セントラル」、官民でうまい使い方してます。
大いに学ぶべきところありです。
「霞城公園」へ向かって行くと、面白い張り紙を見つけました。
「3000円お買い上毎に どんどん焼き1本プレゼント」っていうんですが、ここ「ファッションプラザほそや」って衣料品屋さんでしょ?
首を傾げながら歩いていると、裏口のような位置に「どんどん焼き」のお店「おやつ屋さん」ってのがありました。
山形名物だそうで、お好み焼きとクレープの合いの子みたいなやつなんですけどね。
群馬で「どんどん焼き」っていうと、お正月の松飾りを焼く行事ですから、お国変われば品変わるですね。
「霞城公園」の入口前広場に、「旧香澄町字南追手前」という立派な標柱が建っています。
「追手前」は「おおてまえ」じゃなくて、「おってまえ」と読むんですね。
読み方で言えば、「霞城」(かじょう)は「山形城」の別名ですが、山形は地形上霧が発生しやすい土地柄だそうで、「慶長出羽合戦」の時、直江兼続が富神山の麓から山形城の方を見たが、霞で十日間も見ることができなかったので、「霞ヶ城」(かすみがじょう)と呼んだのが由来だとか。
で、明治六年(1873)にこの辺りを士族に払い下げた時、「霞城村」(かじょうむら)と名付けようとしたが、時の県参事が城の名前はまずいと思ったようで、「香澄」という字をあてて「香澄町」(かすみちょう)としたらしいです。
二の丸南大手門です。
山形城の初代藩主・最上義光(もがみ・よしあき)の石高は57万石でしたが、その後城主が変わるごとに石高を減らし、江戸中期以降は10万石となって城の維持も困難になったそうです。
幕末には5万石まで減り、本丸は更地にして御殿は二の丸に置かれ、三の丸の半分は田畑となっていたといいます。
明治に入って山形市が城を買取り、陸軍の駐屯地を誘致し、城内の櫓や御殿は破却して本丸、三の丸の堀は埋め立てられます。
この辺は、わが高崎城と同じような歩みです。
異なるのはそこからで、昭和二十四年(1949)には早くも本丸及び二ノ丸跡を「霞城公園」として一般に開放します。
また昭和六十一年(1986)に、本丸及び二ノ丸跡(霞城公園)と三ノ丸跡の一部が国の史跡に指定されると、翌年には市制100周年の記念行事として、二ノ丸東大手門を約6年かけて忠実に復元しています。
さて、二ノ丸南大手門から城内に入ります。
「霞城公園」内には、約1500本の桜の木があるそうです。
春はさぞ美しいことでしょうが、秋は秋で葉が色づいて、訪れる人を出迎えてくれます。
公園内のご紹介は、次回。
まずは、西口にある山形城址「霞城(かじょう)公園」へ向かうべく、東西自由通路を歩いていて「おーっ!」と思ったのが、天井のステンドグラス。
名産品「さくらんぼ」や、今日登ってきたばかりの「山寺」の風景など、山形自慢のものが格好良くあしらわれています。
すんばらしいですね。
すんばらしいといえば、自由通路の先にある官民複合ビル、「霞城セントラル」の24階展望ロビーからの眺めです。
晴天に恵まれたこの日は、雪を戴いた月山が望めました。
こちらは、これから行く予定の「霞城公園」です。
1階フロアに降りると、こんなのがありました。
鍋の中にテーブルとベンチがあって、人間が「いも煮」の具になれるようになってます。
「いも煮」ながら、ニクい演出です。
ニクいといえば、この「霞城セントラル」、官民でうまい使い方してます。
大いに学ぶべきところありです。
「霞城公園」へ向かって行くと、面白い張り紙を見つけました。
「3000円お買い上毎に どんどん焼き1本プレゼント」っていうんですが、ここ「ファッションプラザほそや」って衣料品屋さんでしょ?
首を傾げながら歩いていると、裏口のような位置に「どんどん焼き」のお店「おやつ屋さん」ってのがありました。
山形名物だそうで、お好み焼きとクレープの合いの子みたいなやつなんですけどね。
群馬で「どんどん焼き」っていうと、お正月の松飾りを焼く行事ですから、お国変われば品変わるですね。
「霞城公園」の入口前広場に、「旧香澄町字南追手前」という立派な標柱が建っています。
「追手前」は「おおてまえ」じゃなくて、「おってまえ」と読むんですね。
読み方で言えば、「霞城」(かじょう)は「山形城」の別名ですが、山形は地形上霧が発生しやすい土地柄だそうで、「慶長出羽合戦」の時、直江兼続が富神山の麓から山形城の方を見たが、霞で十日間も見ることができなかったので、「霞ヶ城」(かすみがじょう)と呼んだのが由来だとか。
で、明治六年(1873)にこの辺りを士族に払い下げた時、「霞城村」(かじょうむら)と名付けようとしたが、時の県参事が城の名前はまずいと思ったようで、「香澄」という字をあてて「香澄町」(かすみちょう)としたらしいです。
二の丸南大手門です。
山形城の初代藩主・最上義光(もがみ・よしあき)の石高は57万石でしたが、その後城主が変わるごとに石高を減らし、江戸中期以降は10万石となって城の維持も困難になったそうです。
幕末には5万石まで減り、本丸は更地にして御殿は二の丸に置かれ、三の丸の半分は田畑となっていたといいます。
明治に入って山形市が城を買取り、陸軍の駐屯地を誘致し、城内の櫓や御殿は破却して本丸、三の丸の堀は埋め立てられます。
この辺は、わが高崎城と同じような歩みです。
異なるのはそこからで、昭和二十四年(1949)には早くも本丸及び二ノ丸跡を「霞城公園」として一般に開放します。
また昭和六十一年(1986)に、本丸及び二ノ丸跡(霞城公園)と三ノ丸跡の一部が国の史跡に指定されると、翌年には市制100周年の記念行事として、二ノ丸東大手門を約6年かけて忠実に復元しています。
さて、二ノ丸南大手門から城内に入ります。
「霞城公園」内には、約1500本の桜の木があるそうです。
春はさぞ美しいことでしょうが、秋は秋で葉が色づいて、訪れる人を出迎えてくれます。
公園内のご紹介は、次回。