2015年10月04日

駅から遠足 観音山(50)

井上保三郎翁については、既にご存知の方が多いでしょうが、一応、高崎新聞の記事「井上保三郎」をご覧ください。

まだ「隠居の思ひつ記」駆け出しの頃、横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」を読んで、保三郎翁の人柄に感銘を受け「観音さまと、お金の話」という記事を書きました。

昭和六十一年(1986)発行の「上州路 No.150号」に、当時八十八歳の長男・房一郎氏が、父・保三郎のことを語った談話が掲載されています。

保三郎氏がさまざまな工業を起こし、房一郎氏は文化・芸術運動を起こしたことについて、方面は違うけれども共通した流れ、血のようなものがあると言います。

三十以上も会社を作ったそうですよ。父をよく知る人達からは、もしも父が東京へ出て仕事を始めれば、もっと大きく成功したろうとは、しばしば言われたことです。
父は実業家ではあったけれど、割合に性格が穏やかで、自分だけが儲かればいいというのじゃなくて、周囲の人にも潤いを与えながら生きていきたいというような、日本人の昔からあったやわらかな気持ち、他人のことも考えながらというのがあった人です。

工業を起こして利益をあげて周辺を潤したけれど、また、ずっと程度の低い生活で、仕事もなくて困っている人達のためにも手をさしのべていました。
そういう人に副業も三つ四つえらんでさせていました。下駄や傘、草履表を作る副業などです。そういうことで面倒を見たような人でしたね。(略)

晩年になって大きな観音様を高崎の山の上に作るという考えを持ったのも、こういう昔の日本人の心から生まれたものだと思います。
やはり根が実業家なものですから、信仰のためということのほかに、高崎は汽車が頻繫に通るので汽車に乗っている人が降りてお参りするということで、これが新しい高崎の名物として、市の発展に貢献できるということに着眼したのですね。」


同じ「上州路 No.150号」に、熊倉浩靖氏の「井上保三郎 白衣大観音建立への軌跡」という一文が掲載されています。
この中に、面白いエピソードが書かれていますので、ご紹介しましょう。

特に山形煙草専売局工事のエピソードは、彼の企業人としての姿勢を考える上で興味深い。

この工事で、煉瓦を焼く煙が周囲の桑を枯らすという事態が発生したのである。今でいう企業公害である。
農民たちはむしろ旗を立てて押しかけてきた。代人たちが恐怖する中で悠然と立った保三郎はひとり、農民の前に現れ、桑を枯らしたことを率直に詫びるとともに、その弁償を確約し、あわせて土地に桜桃を植えることを申し出たのである。

問題は解決し、以後村人たちの尊敬は高まったといわれる。そして、この桜桃は村の財政を潤し、有名な山形のさくらんぼとなっていったのである。


有名な「山形のさくらんぼ」のルーツが、井上保三郎翁にあったというのです。

このことについては、次回、もう少しお話したいと思います。





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この記事へのコメント
全国のサクランボ生産量の約7割を占めるという山形のサクランボのルーツが、井上保三郎さんにあったとは!
すごいことなのに、残念ながら埋もれてしまった高崎人の歴史ですね。
あー、もったいない。。。
Posted by 風子風子  at 2015年10月07日 13:31
>風子さん

勿体ない話ですよね。
この話は、高崎商工会議所発行の「商工たかさき」や、Web版「高崎新聞」にも書かれているのですが、高崎市民にもあまり知られてないかもしれません。
次回の記事で、もう少し突っ込んでみます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2015年10月07日 19:52
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