2015年09月27日

駅から遠足 観音山(49)

白衣大観音の台座に、「白衣觀世音建立之趣旨」というプレートが埋め込まれています。

これは、昭和十一年(1936)十月二十日の開眼法要で、井上保三郎が奉読した願文を刻んだものだそうです。

この願文を見ると、建立発願の趣旨は次の四つからなっているようです。

一、昭和九年(1934)の陸軍特別大演習の際、天皇に単独拝謁を許された栄誉に感激、その記念と報恩の為。
二、皇祖による建国の大義を忘れることなく国を護り、大観音を仰ぎ精神を高め思想を正しく導く為。
三、戊辰・日清・日露戦役以来の本県出身並びに第十五連隊所属長野・埼玉出身の殉国勇士の名前を台座に刻み、冥福を祈る。
四、観世音の力により、この地に訪れる者の煩悩を除き、衆怨を退散させてほしい。願わくば四方から沢山の人が来て、良き縁が結ばれるように。

高崎市のホームページにも、
「昭和9年(1934)陸軍特別大演習の際、昭和天皇に単独で拝謁できた感激を機に、観光高崎の建設・十五連隊戦死者の慰霊・社会の平安などを祈願、幼い日からの観音信仰により、観音像の建立を決意しました。」
と書かれ、それが定説のようになっています。

しかし、それらのほとんどは表向きの理由で、保三郎の一番の建立理由は、趣旨の一番最後に付け足しのようにして書かれている文言ではないかと思います。
昭和九年五月二十九日の新聞記事が、そう思わせてくれます。



「高崎市に名所が乏しいのを遺憾として・・・、郷土奉仕の一端として遊覧客誘致の造営物を・・・。」というのが主たる目的で、単独拝謁のことなど一言も書かれていません。

そもそも、保三郎が単独拝謁をしたのは昭和九年十一月十四日のことで、その御沙汰書が出されたのも直前の十一月十一日です。
しかし新聞には、「観音像の原型が五月二十八日に出来上がった」と書かれているのですから、原型像の制作依頼はもっと前にされていたはずです。
手島仁氏著「鋳金工芸家・森村酉三とその時代」によれば、「保三郎が池袋の酉三の自宅を訪ね、原型制作を依頼したのは、昭和七年のことであった。」とあります。

このことからも、「単独拝謁を機に白衣大観音建立を決意した」というのは後付けの理由で、第一義の建立理由は「高崎の名所づくりによる観光客誘致」だったことが分かります。
しかも、その大きさは奈良の大仏の二倍半で世界一、高崎に乗り入れる列車の窓から見えるような大きさにしたというのです。
決してブルーノ・タウトが揶揄するような単なる「いかもの」ではなく、明確な意志を以てあの大きさで建てられた観音像だった訳です。

ただ、ひとつ謎があります。
願文には「台座に刻む」とあり、新聞には「像の背部に刻む」とある「戦没者の名前」です。
今、白衣大観音のどこを探しても、そのようなものはありません。

ずっと分からずにいたのですが、思い留めていると、ある時ふっと解けることがあるものです。

昭和六十一年(1986)発行の「上州路 No.150号」に、その答えがありました。

慈眼院第二代住職・橋爪良恒師の寄稿文の中に、次のような話が載っていました。
このことは、つきつめていけば、観音さまの『無縁の大悲』
とでもいうものに突きあたる。
限りない多くの人々のおかげで今日がある。それを翁(保三郎)は、高崎に一番縁の深かった、無名の戦士たちの霊を弔うということで表現したのであろう。

当初はそれらの戦士たちの名前が台座に刻されたということだが、不適当だという理由で、表面をコンクリートで塗り固めてしまったといわれている。

「いわれている。」ということなので、良恒師も実際には見ていないのかも知れませんが・・・。
いつか白衣大観音大修理という日が来た時に、事実が明らかになるのかも知れません。

さて、80年前に井上保三郎翁がこのような思いで建立した白衣大観音、我々高崎市民はそれを活かし切れているのでしょうか。
よくよく、考えてみないといけません。

次回は、もう少し井上保三郎翁のお話を続けます。





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この記事へのコメント
いつも楽しく読ませていただいています。さて、今回の白衣観世音建立の趣旨ですが、これの草稿は井出存義によるものです。また、胎内仏の選考にも井出は関わっています。また、胎内仏の原型アイデアは高崎の画家、桑原千里によるもの、これは原画が残っているので間違いないと思います。また、そもそもの大観音のアイデアは前橋の松崎某という資料もありました。
Posted by 平野博司  at 2015年09月27日 08:19
いつも詳細な考察と解説に敬服です。
いずれは建て替えが訪れるでしょうが、その際には井上翁の建立の思いや、構造の新たな発見があるのではないかと、期待しています。
再建に伴う基金づくりの活動が市民有志で始まりまったようです。長い時間がかかるでしょうが、先人の思いと高崎市の心のモニュメントとして守っていきたいですね。
Posted by 清水一也  at 2015年09月27日 11:17
>平野博司さん

ありがとうございます!
私も、平野さんのFB、とくに替え歌はいつも頷きながら拝見してます。
現代の、添田唖蝉坊ですね。

この度は、貴重な情報ありがとうございました。
そうだったんですね、全然知りませんでした。
いつか資料を見せて頂きながら、お話を聞かせて頂けませんか?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2015年09月27日 11:30
>清水一也さん

コメント、ありがとうございます。
先日は、ひょんな所でお目に掛かることができ、ご縁に感謝です。

白衣大観音像も、あと20年でコンクリートの寿命と言われる100年になるということで、今から覚悟と準備をしておかなければなりませんよね。

行政・市民・企業の気持ちを一つにする活動が必要だと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2015年09月27日 11:36
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