2015年06月14日

駅から遠足 観音山(36)

明治四十三年(1910)発行の「群馬県案内」に載っている、清水観音堂です。↓


写真をクリックして拡大すると分かると思うのですが、観音堂の左隣に大きな仏像が建っています。

こんな立派な観音像です。→
でも、今はもうありません。
戦時中の金属供出で、失ってしまったのです。

この観音像については、過去記事「幻の鋳銅露天大観音」をご覧ください。

この観音像を建てた斎藤八十右衛門雅朝については、この記事も読んで頂けると嬉しいです。
 「鎌倉街道探訪記のおまけ」

過去記事では、碑文の概要しか書きませんでしたので、全文をご紹介しておきましょう。

「芳迹不滅」
昭和庚子夏 為斎藤君
宇佐美毅

宮内庁長官正五位勲四等
  宇佐美毅閣下題辞

此の碑の台石は、わが七代前の祖旧称上毛国緑埜郡緑埜郷の代官斎藤八十右衛門
雅朝が、寛政八年、管内の名主百姓等二百八十余名の発起人となり、蚕穀豊穣祈願の成就を喜びて、当清水寺に寄進せる鋳銅丈六の露天聖観世音立像が座したる旧址なり。

雅朝はさきに天明三年浅間山大噴火の際に数多の難民救助の義挙があり、加え今又この芳躅(ほうたく)を重ねんとし郷民の信望は愈々揚がれり。
然るに斯の尊像の奉納にあたり、初め高崎藩候より郷士の分限にては僭上不屈の所為なりとの咎を受けしため、雅朝は己が一命を屠腹に賭け重ねて乞ひ、聴許を得て建立し後自刃すと言伝ふ、以てその為人を察すべし。

爾来百六十年この苑内にいまして汎(ひろ)く参詣者の尊信を蒐め、且つ寺苑の一景観ともなりぬ。
曾て明治俳壇の巨匠村上鬼城翁(当市居住)の讃句に
   「み佛の お顔の汚斑(しみ)や 秋の雨」

然るにわが国嚝古(こうこ)の大戦に遭ひ、その軍需資材として尊像は回収され、ただ台石を残すのみとなりしは口惜しく、往時を憶ひ転感慨に堪へず、依って予は右像影の消滅を慨(うれた)き、己が嗣子に謀りて建碑の企をすゝめ、わが曾ての上司に題簽(だいせん)を煩し、以て曩祖(のうそ)の逸事を永く後世に伝ふると共に、聊か郷党教化に資せんと斯(かく)云爾(しかいう)

昭和三十五年庚子歳秋彼岸
  雅朝八世孫於浦和市僑居 従六位斎藤義彦撰幷書
義彦嗣子在ペルー国リマ市泰彦建之

(碑裏面)
  雅朝 没年 寛政八年四月二十八日
      寿令 六十有五歳
      法名 東遊院義賢徳忠居士
      墓地 藤岡市緑埜270 旧宅地内

(台石)
  奉造立為国家豊饒蠶成就



と、石碑には刻まれているのですが、それと異なることが書かれているこんな文書があります。



昨年の11月に大類公民館で行われた歴史講座で、中村茂先生から頂いた資料の中にあったものです。
先生の読み下し文を下に転載させて頂きます。
(句読点とカッコ内は迷道院加筆)

観世音御夢想 頭痛即功散
               御初穂として壱包七拾八銅ツゝ
湯島天神前伊勢屋彦七方へ御光来可被下
根元ハ上州高崎ゟ(より)十五丁在花蔵山清水寺与(と)号ス

(そも)当山千手観音ハ沙門延鎮の御作、洛東清水寺の霊物と同木一躰の尊像にして、往古人王五十一代平城天皇の御宇、田村将軍大同三子年御建立の霊場也。

実に当国緑埜郡緑埜の郷士齋藤八十右エ門藤原雅朝与(と)云人、性質篤実ニ志て信心に厚く、母常に頭痛をなやめる事を悲ミ、深重の祈誓をこめ御堂に通夜し一心に願ひけるに、夢想の御告に此薬をもって母の病苦を除べしと御告あり。
眠さめて霊験肝ニ銘し、早速調剤いたし相用候処、霜雪に沸湯をかける如く病即時に全快す。
(それ)ゟ頭痛即功散と号す。
雅朝母子当山に詣て、かゝる霊験ハ稀の事、諸人の病苦を救わん為、薬法を観世音の御寶前へ相納め多年信心。
之年数万人江あたへ是を用ゆるに、壱人として平癒せざるハなし。

雅朝渇仰の餘り寛政八酉年四月十七日、唐銅丈六の観世音当山ニ奉造立、訖(ついに)倍々こゝに無量の妙知力を現し、数万の男女、道ニ行かふ旅人も必一度霊地ニ詣て其とふと(尊)きを知るべし。
(途中略)
諸人の病苦を救わんためひろむるものなり
            上野国清水観世音 別当所 清水寺
東都弘所
 湯島天神門前町 浅草諏訪町 小石川伝通院前表町
 下谷廣徳寺前伊勢屋彦七 中嶋屋平兵衛
 万屋久蔵 三河屋亀蔵


「頭痛即功散」という薬の効能書きらしいのですが、前述の斎藤八十右衛門雅朝のお母さんが頭痛に悩んでいて、清水観音堂に祈誓宿泊したら夢でお告げがあって、その通りに調合した薬を飲んだら全快したので、そのお礼に聖観音立像を造立したことになっています。

何やらガマの油売りの口上みたいで、どうにも胡散臭い話です。
この効能書きがいつ頃のものなのか、年代が書いてないので分かりませんが、少なくとも江戸後期から明治にかけてのものでしょうから、どうもあの田村仙岳が絡んでいそうです。

だとすると仙岳さん、なかなかのやり手住職だったようですね。

では、今日はこの辺で。





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この記事へのコメント
清水寺には立派な観音様があったのですね。
人々の信望篤かった斉藤八十右衛門が自刃したというのは、とても悲しいです。

霊験あらたかな観音様を薬効の宣伝文句にしてしまうなんて、仙岳さんはいろいろな面を持ち合わせていて、面白い人ですね。
Posted by 風子風子  at 2015年06月16日 19:58
>風子さん

けっこう立派な観音像でしたよね。
失ったのは本当に残念なことです。
戦争はいろんなものを失わせます。

仙岳さん、なかなかでしょ(^.^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2015年06月17日 09:00
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    コメント(2)