2009年02月26日

深井仁子さんって知ってますか?

ヤホーで調べても、わからないかも知れない。
何を隠そう、私も知ったのはついこの間のことだ。

清水寺の石段を登り、仁王門を潜ると少し先に、「馬頭観音堂」がある。

その左に、大きな石碑が建っているが、それが「深井仁子先生顕彰碑」だ。

深井仁子(じんこ)は、天保12年(1841)高崎藩士深井四郎資治の三女として生まれた。
父は、仁子が生まれる数ヶ月前に病没しており、母は艱苦(かんく)によく耐えて仁子を養育したとある。

仁子は、女ながらに文武両道に励んだようであるが、特に、田島尋枝(ひろえ)に「皇学」を学んだことが後の行動に大きく影響している。
田島尋枝という人もなかなかの人物で、連雀町「清香庵」という鰻屋の亭主だというが、片手に団扇、片手に本、鰻をさばく時でさえ本をそばに置いていたという。

時は勤王佐幕の嵐が吹き荒れている時代、将軍譜代の家柄である高崎藩は当然佐幕派であるが、皇学を学んだ仁子は堂々と勤王の大義を唱えた。
ために、反対派から命を狙われ、毒を盛られて危うく一命を落とすところだったそうである。

御世は明治に変わり、仁子は高崎の教育界に先駆的な役割を果たす。
明治11年(1878)、宮元町に私学「国振(くにふり)学校」を開設、女子教育に力を注いだ。
明治40年(1907)には「私立深井幼稚園」も併設している。

幕末の女傑、深井仁子は人々の記憶から忘れられようとしている。
石段の「徳音」碑に、もういちど光を当てて差し上げたいものだ。



(参考図書:「高崎の散歩道 第11集」「実録たかさき」)


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Posted by 迷道院高崎 at 21:01
Comments(2)観音山
この記事へのコメント
おいら、知りませんでした。
彼女もまた勤皇の志士なのでしょうか。
女性なのにすごいですね。
高崎の歴史に残る方のはずなのに・・・。
切ないですね。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年02月26日 23:54
>弥乃助さん

あの時代に、世の中をリードする女性がいたのは驚きですが、考えてみれば、今、弥乃助さんが書いてくれている徳川時代も、結構女性に操られてる面がありますよね。

今度の総理は、小池女史になるんでしょうか?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年02月27日 18:32
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深井仁子さんって知ってますか?
    コメント(2)