←どう見たって、お城だ!
なんで? えっ? なんで?
玄関の方へ回ってみた。↓
武家屋敷のような立派な門には、篆刻文字で「並榎館」と刻まれた、これまた立派な看板に、「丸に立ち沢瀉(おもだか)」の家紋が描かれている。↓
う~ん、入りずらい・・・。
向かいの酒屋さんに飛び込んで、どんな方が住んでいるのか探りを入れてみた結果、とりあえず怖い方ではなさそうなので、意を決して恐る恐るチャイムを押してみた。
ややあって、中から「はーい、どなたですか?」と女性の声がした。
「通りがかりの者です。」と答えてから、自分でも可笑しな言い方だとは思ったが・・・。
ともかく、何とか玄関先で奥さまにお話を伺うことができた。
聞けば、ここのご先祖様は箕輪城主長野家の家臣であったが、永禄9年(1566年)箕輪城が武田信玄によって落城した時、ここ並榎の地に落ちのびて来たのだという。
数年前に亡くなったご主人が、家の歴史を後世に残したいというお気持ちで、お城を模した3階建ての建物を造ったのだそうである。
お話を聞いている内に、そのご主人は市立第2中学校の先生であったこと、ちょうど私が通学していた時期であったことが分かった。
苗字が「清水」さんであることから、私は一人の先生の顔を思い出していた。
「もしかして、メッサーシュミットで学校に来ていた清水先生ではないですか?」と聞くと、
「よく、知ってますね。そうです、メッサーシュミットに乗っていました!」
とにかく、一風変わった先生であった。
真面目な先生方からは疎んじられていたようだが、本人は全く意に介していない風で、飄々としていた。
そんな格好よさが不良少年達からも絶対的な信頼を得ていた。
写真を見ると、今、巷間人気の白洲次郎に、どことなく似てはいないだろうか。
私が1年上の生徒に便所に連れ込まれて殴られた時、大体の先生は「困ったことに・・・。」という感じだったが、清水先生だけが「相手は強かったですか?」と聞いたのを、懐かしく思い出した。
高台にある近くの「並榎山常仙寺」から眺めると、清水先生のお城が、観音山丘陵を背に凛と立っている。
これもまた、高崎の名所として、いつまでも、いつまでも、残っていてほしい景色である。
なんで? えっ? なんで?
玄関の方へ回ってみた。↓
武家屋敷のような立派な門には、篆刻文字で「並榎館」と刻まれた、これまた立派な看板に、「丸に立ち沢瀉(おもだか)」の家紋が描かれている。↓
う~ん、入りずらい・・・。
向かいの酒屋さんに飛び込んで、どんな方が住んでいるのか探りを入れてみた結果、とりあえず怖い方ではなさそうなので、意を決して恐る恐るチャイムを押してみた。
ややあって、中から「はーい、どなたですか?」と女性の声がした。
「通りがかりの者です。」と答えてから、自分でも可笑しな言い方だとは思ったが・・・。
ともかく、何とか玄関先で奥さまにお話を伺うことができた。
聞けば、ここのご先祖様は箕輪城主長野家の家臣であったが、永禄9年(1566年)箕輪城が武田信玄によって落城した時、ここ並榎の地に落ちのびて来たのだという。
数年前に亡くなったご主人が、家の歴史を後世に残したいというお気持ちで、お城を模した3階建ての建物を造ったのだそうである。
お話を聞いている内に、そのご主人は市立第2中学校の先生であったこと、ちょうど私が通学していた時期であったことが分かった。
苗字が「清水」さんであることから、私は一人の先生の顔を思い出していた。
「もしかして、メッサーシュミットで学校に来ていた清水先生ではないですか?」と聞くと、
「よく、知ってますね。そうです、メッサーシュミットに乗っていました!」
とにかく、一風変わった先生であった。
真面目な先生方からは疎んじられていたようだが、本人は全く意に介していない風で、飄々としていた。
そんな格好よさが不良少年達からも絶対的な信頼を得ていた。
写真を見ると、今、巷間人気の白洲次郎に、どことなく似てはいないだろうか。
私が1年上の生徒に便所に連れ込まれて殴られた時、大体の先生は「困ったことに・・・。」という感じだったが、清水先生だけが「相手は強かったですか?」と聞いたのを、懐かしく思い出した。
高台にある近くの「並榎山常仙寺」から眺めると、清水先生のお城が、観音山丘陵を背に凛と立っている。
これもまた、高崎の名所として、いつまでも、いつまでも、残っていてほしい景色である。
【並榎館】