2009年02月24日

あった!お城だ!

あった!お城だ!←どう見たって、お城だ!

なんで? えっ? なんで?

玄関の方へ回ってみた。↓

あった!お城だ!

武家屋敷のような立派な門には、篆刻文字で「並榎館」と刻まれた、これまた立派な看板に、「丸に立ち沢瀉(おもだか)」の家紋が描かれている。↓

あった!お城だ!う~ん、入りずらい・・・。

向かいの酒屋さんに飛び込んで、どんな方が住んでいるのか探りを入れてみた結果、とりあえず怖い方ではなさそうなので、意を決して恐る恐るチャイムを押してみた。

ややあって、中から「はーい、どなたですか?」と女性の声がした。
「通りがかりの者です。」と答えてから、自分でも可笑しな言い方だとは思ったが・・・。
ともかく、何とか玄関先で奥さまにお話を伺うことができた。

あった!お城だ!聞けば、ここのご先祖様は箕輪城主長野家の家臣であったが、永禄9年(1566年)箕輪城が武田信玄によって落城した時、ここ並榎の地に落ちのびて来たのだという。

数年前に亡くなったご主人が、家の歴史を後世に残したいというお気持ちで、お城を模した3階建ての建物を造ったのだそうである。

お話を聞いている内に、そのご主人は市立第2中学校の先生であったこと、ちょうど私が通学していた時期であったことが分かった。
苗字が「清水」さんであることから、私は一人の先生の顔を思い出していた。
あった!お城だ!「もしかして、メッサーシュミットで学校に来ていた清水先生ではないですか?」と聞くと、

「よく、知ってますね。そうです、メッサーシュミットに乗っていました!」

あった!お城だ!とにかく、一風変わった先生であった。
真面目な先生方からは疎んじられていたようだが、本人は全く意に介していない風で、飄々としていた。

そんな格好よさが不良少年達からも絶対的な信頼を得ていた。
写真を見ると、今、巷間人気の白洲次郎に、どことなく似てはいないだろうか。

私が1年上の生徒に便所に連れ込まれて殴られた時、大体の先生は「困ったことに・・・。」という感じだったが、清水先生だけが「相手は強かったですか?」と聞いたのを、懐かしく思い出した。

あった!お城だ!高台にある近くの「並榎山常仙寺」から眺めると、清水先生のお城が、観音山丘陵を背にと立っている。
これもまた、高崎の名所として、いつまでも、いつまでも、残っていてほしい景色である。


【並榎館】


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Posted by 迷道院高崎 at 21:11
Comments(17)◆高崎探訪
この記事へのコメント
あ~、見た事あります。
由緒のある家だったのですね。

常仙寺に行かれたって事は・・・次回は音楽の話だったりして・・・。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年02月24日 22:23
>弥乃助さん

お寺さんのことは、弥乃助さんに敵わないので、私は並榎近辺のシリーズものでいってみようと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年02月25日 08:17
感動です!!

実は、中一のとき僕は清水先生に教わりました。「技術家庭」の時間です!!

「シミッチャン、シミッチャン」と呼ばれていました。とにかく軍隊調にでっかい声で受け答えをすると先生は喜んで、大きな声で「デーーーーシッ」といいながらギュウッと両手で握手をしてきます。
ヘマをすると“ピンタ”が飛んできます。小さい先生でしたけどものすごく迫力がありました。本職は「数学」の先生でしたけど、その一風変わりよう、奇人変人ぶりは他の先生もその意味で一目置かざるを得なかったようです(笑)。
一度、清水先生が来いというのでご自宅「並榎館」に行ったことがありました。確か退職後は学習塾をやっていたと思います。
「メッサーシュミット」。懐かしいですね。何せ昭和35年のころです。自家用車なんて誰も持っていない時代でした。それがしかも「外車」です。へんてこりんな外車でしたけど。運転台に座らせてもらいました・・・・・
僕の親友(当時の)が応援団(シミッチャンが顧問)の団長をやってたので結構なれなれしくさせてもらってました(笑)。
訃報を新聞で知ったとき、たしか掲示板に「清水先生」を書きました。ホント、懐かしいです!!
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年02月25日 13:37
迷道院高崎さんと昭和24歳さん、これは運命ですね。
清水先生が2人を引き合わせたのでしょうか・・・。
おいらは存じ上げませんが・・・。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年02月25日 20:02
>昭和24歳さん

そうでしたか、昭和24歳さんにとっても思い出深い先生だったんですね。

応援団の団長というと、新後閑さんという先輩が印象に残っています。

清水先生と仲の良かった社会科の戸塚先生も、同じくちょっと変わった先生でした。
「テストなんかしても糞の役にも立たない」という考えの先生で、答えの欄にイ、ロ、ハ・・・と順番に書いていけば誰でも100点が取れるような問題を作ってくれました。

私の担任の山木先生も、空手4段の豪傑でした。

あの頃は、そういう先生がいてくれた時代でしたね。
懐かしいです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年02月25日 20:04
>弥乃助さん

本当にそうですね。

清水先生とグンブロに感謝です。
沢山の方々と、ご縁がつながりました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年02月25日 21:19
山木は理科だったか物理だったか縁無メガネで、僕らが騒ぐと拳骨で黒板を「ドカッ」と叩いた・・・・・
黒塗りのゴッツイ自転車で風呂敷に教科書、弁当をくるんで通勤してました。
戸塚先生・・・・・先生は安中から通ってました。先生は「秩父事件」、“日本困民党”の研究者としても著を残しておられますね。国語の教科担任でしたけど、いわゆる「社会派」の先生でした。「百姓!!」と、「百姓」を侮蔑する物言いに異常に怒っていたのを憶えています。「百姓をバカにするな!!おめえらだってみんな百姓なんだ!!」って・・・・・僕の時代の応援団長は「高橋さん」、知る人ぞ知るジースーのチョークミのガレセでした。高橋さんの跡を受けての団長が同級生の関根君でした。
僕の担任は1年が“中島”2年が“唐沢”3年が“石原”でした徳武万年が学年主任、1学年9クラスでしたね。もっとも先輩の学年は11クラスでしたから、先生も名物先生ばっかりでしたね(笑)。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年02月26日 08:31
はじめまして。昨日高崎城調査で訪れた際に、偶然確認しました。

気になって検索してみたら、、、そういう経緯のお城だったのですね。

参考になりました。
Posted by カユ  at 2009年03月15日 23:18
>カユさん

コメント、ありがとうございます。
目にとめて頂いて、光栄です!

高崎城を調査してらっしゃるのですか?
それも、嬉しいことです!

ぜひ、またご訪問ください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年03月15日 23:45
こんにちわ。初めてコメントさせていただきます。
実は、私の母方のご先祖様は高崎の「箕輪城」で殿様を守っていた三武士のひとりで、清水と言う、、と聞いています。母の旧姓は清水、そしてお墓が高崎にある、、などと聞いていたので検索していてこちらへたどり着いたしだいです。
私自身、高崎の方には行ったことがなく、まだそちらで暮らしている母の親戚にもあったことがないのですが、こちらの「清水先生」は、やはり一族のひとりなのかな、、、などと想像して楽しくなりました。先生が日本人ばなれしたハンサムボーイなのもうれしく思います(笑)。あ、それから母の兄弟たちは変わった人が多い、、。
祖父は私が生まれる前に他界しているので、詳しくわからないのですが、母の兄まではお侍さんの名前がついていて、時代が変わっても武士の伝統をひそかに受け継いでいたことを最近知り、もっとご先祖様のことを知りたくなったのです。
一度このお城(お家?)を見たくなりました。
Posted by いくこ  at 2010年01月09日 00:47
>いくこさん

コメントありがとうございました!
嬉しいですねー!
清水先生が、今も人と人をつなげてらっしゃるなんて!

いくこさんのお家柄も、気骨あるサムライ精神が受け継がれていたんですね。
とても素敵なことだと思います。

ぜひ、高崎へお出かけください!
高崎の街並みは、すっかり近代化してしまいましたが、高崎城下町の元となった箕輪の町は、趣きある場所がまだまだ残っています。
箕輪城址も、整備が進んでいるようです。

お待ちしております!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年01月09日 08:50
返信をありがとうございました。
ほんとうに、ぜひ一度そちらへ伺いたいと思います!
私はもう22年以上日本を離れておりまして、現在イタリアに住んでいます。
母や叔父たちは時々お墓参りに行っているようですので、次回はぜひ私も子供たちも一緒に、ご先祖様の住んでいたところを見たいと思います。

高崎の情報満載のブログ、また来させていただきますね!
Posted by いくこ  at 2010年01月09日 20:00
>いくこさん

えーっ!イタリアからのコメントだったんですかー!
それは、それは。

グンブロは、高崎情報を発信しているブロガーさんが沢山いますので、お役に立つかもしれませんよ。

またのコメント、お待ちしております!
ありがとうございました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年01月09日 20:08
こんにちは、初めてコメントいたします。
イタリアからの連絡でこのブログを知りました。
私は愛知県在住ですが清水姓です。
このお城の城主の方は清水xx男先生ではないでしょうか。私が26年前(古い!)墓参に行った折、この人は「学校をやめて塾をやっているが歴史が好きなので古い事を知っているかもしれない」と言われた記憶が有ります。
残念ながらその時は会えず、そのまま月日は流れ今日になってしまいました。

本文にある箕輪城落城の話は私の知るところはこんな風です。
まず永禄9年(1566年)となっているのは現地の伝承は永禄6年(1563年)です。最近の研究で9年が正しいようですが6年となっているものも色々有ると思います。
ですからご隠居様の旧三国街道さ迷い道中記(13)に箕輪城落城が永禄6年となっているのはそんな理由です。(我が家の伝承も6年)

それから箕輪城落城に際して大手門側は落城したが、搦め手門側は強固で落城しなかった、だから信玄が使者を出し自分が召抱えるという条件で開城させたようです。
この時の搦め手門側の総大将が上泉伊勢守信綱(信綱の信は信玄からもらった)、しかし彼は二君に仕えずで仕官せず、後に剣術新陰流をひらいた。
その時並榎村に住み着いたのが先生の祖先、従って落城して野に下ったけれどそれなりの処遇を受けていたようです。
こんな所です、何かの参考になれば幸いです。
それから私は3月頃墓参で高崎に行く予定。
このブログで高崎関係の情報も仕入れたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by 短足おじさん  at 2010年01月25日 12:03
>短足おじさん様

コメントありがとうございました!
すごいですねー!
高崎からイタリアへ、そして愛知ですか。
何だか、吾ながらブログの凄さを思い知らされています。

清水先生は、もうお名前を出してもよいかと思いますが、清水真澄先生と仰います。
真澄先生も、お父様も並榎館で塾を開いておられたので、お父様のお名前がxx男さんかも知れませんね。

箕輪城落城と清水先生のご先祖の秘話も、なるほどー!ですね。
真澄先生の、ただものじゃない風格は、あって然るべきものだったのですね。
教えて頂いてありがとうございました。
おかげさまで、ブログに深みが増しました。

高崎へお越しの際は、ぜひ清水先生宅をお訪ねください。
必要とあらば、ご案内申し上げますので。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年01月25日 22:36
早速返信いただき有難うございます。
面識のない方のお名前を出すのは失礼かとは思いますが、私の存じ上げているxx男さんは富士男さんと聞いています。
但し上に書いたように26年前の話、もう鬼籍の入られているだろうなあと思っていました。

所で3月に墓参に行く予定ですが墓地はこのブログの地図にある第一中学のすぐ近く、ですからこの城もすぐ分かると思います。
Posted by 短足おじさん  at 2010年01月26日 07:41
>短足おじさん様

そうでしたかー。
ご先祖様が時空を駆けて一族を纏めているようですね。

3月の高崎へのご訪問、お気をつけてお出掛け下さい。
併せて、高崎を楽しんで頂ければと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年01月26日 08:49
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