2015年04月05日

駅から遠足 観音山(27)

次に田村仙岳の名前が出てくるのは、下仁田戦争の時です。
仙岳さんのお話をする前に、まず下仁田戦争について少しお話ししておく必要があるでしょう。
しばし、お付き合いください。

元治元年(1864)七月八日下妻に於いて戦わずして敗走した高崎藩は、追討軍目付・氷見貞之丞に不首尾を責められた上、「結城と下館に陣をおいて水戸浪士に備えよ。」という指示を受けます。
しかし高崎藩隊長・田中正精は、「藩兵が長い間戦地にあるので、しばらくの間高崎で休養させたい。」として、十七日に高崎へ戻ってきます。

そして九月になって再び出動した高崎藩は、幕府軍に合流して那珂湊で浪士軍と戦いをまみえ、ここでは何とか凱歌を挙げることができました。
那珂湊の戦いに敗れた浪士たちが企てたのが、京都にいる一橋慶喜を介して朝廷に自分たちの思いを訴えることでした。
ここに、武田耕雲斎を総大将にした水戸天狗党の西上が始まる訳です。

十一月一日に筑波山を出発した天狗党は大砲15門を有し、騎馬武者150人、歩兵700人、砲隊65人の総勢925人で、十日には太田まで進んで来ました。
それを阻止せよと、高崎藩に命令が発せられたのは、十一日のことでしたが、この時、高崎藩の主力部隊はいまだ那珂湊にあって帰城できず、残る城兵わずかに600人ほどであったといいます。

天狗党太田で二泊したあと中山道を通り、十三日に本庄へ入ります。

一方高崎藩は、一番隊109人を十三日夜に出発させますが、天狗党日光街道を通るという情報をもとに、玉村に向かいます。
そして二番隊92人が倉賀野に向けて出発するのは翌十四日の朝でした。
その後で天狗党が本庄にいることを知った高崎藩は、急いで一番隊を新町河原に、二番隊を岩鼻河原に転じ待ち受けます。

ところが、それを察知した天狗党本庄から神流川を渡って藤岡へと進路を変え、吉井を通る姫街道へ進んで高崎藩との衝突を避けようとします。
ここで高崎藩が体よく追討を断念していれば、この後の悲劇は起きなかったのでしょうが・・・。

吉井に入った天狗党の宿営を、吉井藩は黙って見過ごします。
また富岡七日市藩は、秘かに間道を案内して迂回させます。
そんな中、高崎藩は一昼夜歩き通して一の宮貫前神社へ兵を進め、小幡、七日市両藩と作戦会議をもちますが、及び腰の両藩は先鋒を務めることを断り、高崎藩を後方から援護するという約束をします。

悲劇の舞台・下仁田天狗党が姿を現したのは、十五日の午後四時ごろだったそうです。
同じ日の夜、一の宮を出発した高崎藩一番隊も、梅沢峠から下仁田に入ります。
そして、十六日の夜明け前、ついに戦いの火蓋が切られます。

やや遅れて梅沢峠に到着した高崎藩二番隊も、砲撃の音を聞いて急ぎ参戦し、最初の内こそ高崎藩優勢であったようですが、なにせ多勢に無勢、やがて三方から包囲され崩されていきます。

戦いの逐一については他に譲ることとし、ここでは二番隊大砲方として参戦していた深井直次郎(景員/かげかず)の著書「下仁田戦記」(明治四十三年発行)から、勝敗を決定づけたと思われる出来事だけ引用しておきましょう。
戰酣(せんかん/敵味方入り乱れて戦うこと)なる頃、所々の藪林丘岡(そうりん・きゅうこう)に潜伏せる敵兵盛に發砲す、我兵之に應して砲戰彌久(びきゅう/長引くこと)し、時に左方狐窪の山上に突如として一隊顯(あら)はる。
我は之れ小幡の藩兵前約を履(ふん)(一の宮での約束を履行して)敵を襲ふものとし、爲に備を設けず。
然るに我に向て發砲するに及びて初めて其敵なるを知り・・・」

高崎藩を援護すると約束した小幡藩はその時どうしていたかというと、大塚政義著「義烈千秋」(昭和五十一年発行)によれば、
小幡藩兵三百余名は、小坂峠をさけて馬山村に出て十六日の明け方、白山峠で浪士たちに対峙した。
水戸浪士より一発の砲撃をみまわれ、驚いて神農原まで退いたという。」

同じく高崎藩を援護するはずだった七日市藩に至っては、
七日市藩兵も南蛇井の中沢村に入ったが、この砲声が大桁山に大きくひびきわたったので、中沢村より一歩も出なかったという。」

高崎藩自体も応援のために三番隊133人を編成し、十六日朝に城を出発させていたのですが、一の宮まで進んだところで戦いは終わったという報に接します。

そんな訳で、味方の援軍も得られぬまま、よく善戦した一番隊二番隊でしたが、ついに正午ごろ退却を決定し、松井田を抜けて安中に敗走することとなります。

この戦いで天狗党の戦死者はわずか3名、片や高崎藩は戦闘による死者29名、生け捕り18名の内切腹または斬首7名と、計36名の死者を出すという悲惨な戦いとなってしまいました。

この戦死者たちの収容と供養に奔走したのが、高崎清水寺住職・田村仙岳だったのですが、ここまでだいぶ長い記事になってしまいました。
続きは、また次回ということにいたしましょう。





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この記事へのコメント
以前 拙ブログで下仁田歴史めぐりを紹介したことがありますが、下仁田には下仁田戦争関連史跡が数多く残されています。
見学当時に感じた幕末の生々しい歴史の痕跡を、あらためて思い出しました。
Posted by 風子風子  at 2015年04月08日 09:51
>風子さん

実は次回、風子さんの「下仁田・歴史さんぽ 」をリンクさせて頂こうと思っていたところなんですよ。
この場をお借りして、リンク承認申請をさせて頂きます(^.^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2015年04月08日 13:01
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