2009年02月23日

嗚呼、高崎藩士

清水寺観音堂の左手に、「田村堂」がある。

昔は「開山堂」とも言われていたようで、清水寺を開基したと伝わる坂上田村麻呂の木像を安置するお堂である。



だが多くの人は、「下仁田戦争で戦死した高崎藩士」を祀ったお堂、と思っているのではないだろうか。

確かに堂内部の正面には、「木像堂由来」としてそのようなことが書かれている。
肝心の田村麻呂の木像は正面の上に飾ってあるのだが、煤けていて目立たない。
田村麻呂とすれば、まさに「庇を貸して、母屋を取られ」た気分だろう。

ここで、下仁田戦争のことについて少し書いておこう。

幕末の元治元年(1864年)、水戸藩の尊皇急進派である武田耕雲斎率いる「水戸天狗党」の1,000名は、一橋慶喜を頼って上州を抜け、京へ向かおうとしていた。
これに対し、幕府は上州諸藩に天狗党の追討を命じ、高崎藩にもその命は下った。
だが、当時高崎藩の主力兵士は水戸に遠征中であり、しかたなく年寄りや少年まで動員してやっと200名ほど揃えたようである。
下仁田に到着した高崎藩士は、無勢ながらも果敢に戦いを挑んだものの、勢力・地の利を有した天狗党に惨敗し、36名の戦死者を出して退却することとなる。

そんな歴史を知って「田村堂」高崎藩士木像を見ると、感慨もまた深いものがある。

幕命を受けた高崎藩士が、下仁田へ向って急いだ道が、富岡への近道となる「岡街道」である。

片岡の辻を北に入り、くねくねと山に向かって登っていく道が「岡街道」で、左の写真は「一望閣」の真下に出たところで振り返った風景である。

高崎藩士は、ここから現在の土産店街を抜け、奥平、福島、富岡を経由して下仁田まで、長い道のりを遠征した訳だ。

ここからは、当時も高崎城下が一望できたはずである。

負け戦で傷ついた体を引きずって、やっとここまで帰り着いた高崎藩士は、どんな気持ちで城下を望み見たのであろうか。

その気持ちを想像すると、憐憫の情を禁じ得ない。



【岡街道 撮影場所】


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Posted by 迷道院高崎 at 09:12
Comments(4)観音山
この記事へのコメント
多勢に無勢の中戦って散った高崎藩士のお墓は所々のお寺にあるようです。
そんな彼らの供養の為にお参りするのもいいかもしれませんね。
案外忘れられて粗末になっているお墓もあるかもしれません。
Posted by 弥乃助  at 2009年02月23日 10:01
>弥乃助さん

そうです。忘れられちゃってるんですよね。
同じ過ちを犯さないためにも、歴史を知ることは大切だと思っています。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年02月23日 16:07
高崎生まれです。ご先祖様の墓地も高崎にあり、先祖探しをしています。公式の市史などには乗らない、あるいは洩れている民族的?、庶民的な話が面白いです。
Posted by 松本保  at 2013年01月13日 22:41
>松本保様

コメント、ありがとうございます!

ご先祖様は、高崎藩士だったのでしょうか。
高崎藩士の墓を、ひとつひとつ探求されている先生もいらっしゃいますよ。

これからも、「隠居の思ひつ記」よろしくお付き合いください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年01月14日 09:31
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