2014年11月09日

駅から遠足 観音山(9)

観音山への入口ともいうべき、「聖石橋」です。

昭和六年(1931)に木橋からコンクリート橋に架け替えられ、平成十九年(2007)には拡幅されて立派な橋になりました。

昭和四十五年(1970)発行の「高崎市史」によると、
ここははじめ渡船場として新田町(しんでんまち)の持ちであった。
この付近には城下下に木戸番所があり、橋はなく舟で渡していたもので、のちに石原村持ちとなって、舟をつなぎ、その上に板を乗せた舟橋が、毎年十月につくられ、翌年四月にそれを撤去したのは、豪雨のために舟橋が流失するからで、夏は従って舟渡しとなった訳である。
のちに土橋ができたが、巾六尺に過ぎず、しかもこれは石原村の設営であったから、当然渡し賃金を徴収していた。(略)
明治三十年(1897)頃も板を敷いた仮橋で、大人一銭子ども五厘の橋銭をとっていたが、吉井街道が県道に指定された大正年代になって木橋になった。
さらに昭和九年(1934)に高崎地方で特別大演習が挙行されるにあたり、乗附練兵場が観兵式式場となり、天皇陛下が親しく御臨幸になるためこの橋もその時鉄筋コンクリートの永久橋に改造された。」
ということです。

このことについて、実は市史編纂委員のN先生から、新資料が発見されたとして、2年前にこんなお手紙を頂戴していました。
明治十三年(1880)十二月聖石橋木橋ができ、税金ではなく地元有志が出資建設した橋なので有料橋となり、5年おきに橋銭徴収願いが出されていました。
ところが、明治三十四年(1901)の継続出願に際して、『無料にした方が人民の益になるのではないか、不許可にしたいが高崎市の意見を聞きたい。』と、群馬県から高崎市へ諮問があった。
高崎市議会は、地元有志の橋建設負債を肩代わりすることや、今後生ずる橋の維持管理費などに難色を示して、相変わらず有料が続いたらしい。明治四十二年(1909)には値上げ願いが出されている(一人5銭→6銭)。
結局、昭和六年(1931)にコンクリ橋ができるまで有料だったらしいが、その辺の細かいことがよく解らない。」

「君ヶ代橋」も、明治十一年(1878)まで橋銭を取っていたらしいですが、明治七年(1874)開校の「豊岡小学校」の創設資金に充てたそうです。(過去記事「なんじゃ、これ?」
「聖石橋」の橋銭も、きっと村のために役立てたんだと思いますが。

「聖石橋」の名前の由来となった「聖石」は、相変わらず草木に埋もれて見ることができません。

これも過去記事で、さんざっぱら嘆いておきましたので、改めて嘆きたくはないのですが、やっぱり「あ~ぁ・・・。」と出る溜息は抑えられません。

今、「聖石橋」の上流側では、「桜観音橋」「天然芝サッカー場」の工事が盛んに行われています。


烏川に親しむ施設としてとても良いことだと思うのですが、併せて高崎の歴史的名勝「聖石」の整備も忘れないようにしてほしいと思うのです。

「聖石橋」の下流側から国道の方を振り返ると、水門のようなのが見えますが、ここが「高崎城遠構え」の落とし口です。





現在は遠構えもすべて暗渠になってしまっていますが、「龍廣寺」東のこの細い道が遠構えの跡です。

明治三十五年(1902)発行「大日本宝鑑 上野名蹟図誌」「龍廣寺之景」には、遠構えが水路として描かれています。↓


「龍廣寺」付近は水量が多く勢いもよかったようで、水車が幾つも設けられていたそうです。

橋を渡り、石原の信号を渡った右側に「聖石神社」があります。

石燈籠には、昭和二十七年(1952)と刻まれていますので、神社もその頃祀られたものでしょうか。

石燈籠の奉納者は、あの田村今朝吉翁でした。











柔らかい三国石で造られた石祠は、少し崩れている部分もありますが、見事な彫りです。

さ、次回はもう少し先へ進みましょう。





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この記事へのコメント
大日本宝鑑 上野名蹟図誌は、私も良く観ますが
100年余りで現在と随分変わっていますね。
私は、神葬祭ですが伊勢崎市境保泉の勝山神社の
大日本宝鑑上野名蹟図誌では、鳥居のすぐ前が
河が流れています。

其れに広瀬川の竹石の渡しでも例幣使が通った
ので、ずいぶん地元の方は苦労した様です。

桜観音橋は、私自身は便利でしょうが
後世の評価はどうなのでしょうか?
Posted by 和佐田  at 2014年11月11日 05:37
>和佐田さん

「名蹟図誌」の絵図が正しくその姿を描いているかどうか、ちょっと怪しいところもありますが・・・。

「桜観音橋」という名前は、今の高崎には珍しくいいネーミングだと思ったら、小学生が名付け親でした。

いま国道が通っているところは、昔は高崎公園の「下公園」と呼ばれていて、桜の名所として市民に親しまれていたようです。
「桜観音橋」を渡った先の河川敷が、これからどのような姿になるのか、後世の評価はそれ次第でしょうね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年11月11日 18:51
烏川についてはもっと知りたいと思っていますが、
なかなか調べることができません。
橋はなく船で渡していたのが、舟をつなぎ舟橋になり、
橋ができると橋銭をとっていたなど、現在の様子からは
考えられないような、当時ののんびりした風景が想い起されて愉しいです。
Posted by 風子風子  at 2014年11月15日 16:20
>風子さん

「高崎八景」の中に、「烏川渡舟(からすがわのとしゅう)」というのがあります。
帆をつけた高瀬舟も往来していたようですから、味わい深い風景だったんでしょうね。
タイムマシンがあれば、当時の風景を見に行ってみたいです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年11月15日 19:35
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