2014年09月07日

駅から遠足 観音山(2)

「駅から遠足」ということで、まず「高崎駅」のことからお話しいたします。
「高崎駅」は、明治十七年(1884)「中山道鉄道」(現高崎線)の「高崎停車場」として開設されました。

写真は、その開通式の「高崎停車場」構内の様子なのですが、大変な世情の中での緊迫した開通式となりました。
詳しくは、過去記事「さすらいの春靄館」をご覧ください。

ところで、現在何の不思議も感じない「高崎駅」の場所ですが、実はここに開設するについては、長い長い物語があるのです。
長い話になりますが、どうぞお付き合いください。

まずは、この地図をご覧ください。

「高崎停車場」が開設された翌年の地図ですが、ずいぶん町外れに造ったもんだと感じませんか?
この当時の高崎の中心地は本町・田町周辺であることも、家の密集具合からお分かり頂けると思います。

普通なら、もっと中心市街地に近い所へ停車場を造った方が、アクセス道路を造るにも短く済むはずです。
車社会の現在ならともかく、ほとんどの人が歩きの時代、利用者にとっても便利なはずですし。

にも拘らず、「我が町に停車場を。」とする新町に対し、高崎中の有力者も公官吏も誰一人反対する者がいなかったというのです。
その理由の一つが、幕末の新町に起きた「御伝馬事件」です。

新町延養寺に、その事件の記念碑が建っています。

「伝馬」とは律令時代からある制度で、宿駅から宿駅へ荷物を継ぎ送る輸送システムです。
このシステムは江戸時代になってからも続いており、高崎宿では初め本町のみが伝馬業務を行っていました。

しかし、「参勤交代」による諸侯の往来が頻繁になると、本町一町では負担が大きいということで、田町新町を加えた三町で月を三分して交替であたることとなったのです。

伝馬を負担する見返りに地子(宅地年貢)は免除されるものの、継立に要する人馬を常に用意しておかねばならぬ等、その費用負担は町にとって大きなものでした。
特に本町田町と異なり、旅籠屋が主で巨商・豪商という店が少ない新町にとって、その負担の重さは年々嵩む一方で、もう耐えきれないところまで来ていました。

そこへ追い討ちをかけたのが、文久二年(1862)正月二十七日に本町から発生した火災です。
後に「百足屋火事」と称されたこの火災は折からの北風に煽られ、城下の7割が焼失する大火となり、新町も類焼の憂き目に遭ってしまいます。

新町では町内一同が協議し、当時高崎城下では禁じられていた「相撲、旅芝居、見世物の興業」「旅籠に飯盛女を置くこと」の許可を高崎藩に求め、その利益を以て町の復興と伝馬業務の継続を図ろうとします。
しかし、その請願は受け入れられず、いよいよ切迫した町民惣代はついに箱訴を以て幕府へ直訴に及んだのです。

これによっても請願の実現を見ることはなく、それどころか町内の主だった者14名が入牢あるいは手錠腰縄で他町預けとなる始末でした。
ますます困窮を極めた新町に、さらなる困難が舞い込みます。
元治元年(1864)水戸天狗党を追討するため、幕府若年寄の田沼玄蕃らが高崎に宿泊することとなり、その費用300両を、あろうことか高崎藩は伝馬を務める町に負担させようとしたのです。

慶応二年(1866)もうこれ以上伝馬業務を続けることは出来ない、請願内容が取り上げられないのであれば厳罰を覚悟して御役御免を願い出ようと、悲壮な決断をするまでに追い詰められます。
この事態をこのまま傍観するには忍びないと動いたのが、寄合町の中島伊兵衛と連雀町の関根作右衛門でした。

両氏は各町の有志と図り、問屋場入費助合として月30両、伝馬永続助成として500両を藩の御納戸へ上金し、その利息として年50両を新町へ下付されるように取り計らいました。
このおかげで、新町は辛うじて最悪の事態を回避できましたが、騒動を起こした罪によりまたもや首謀者2名が居町払い、79名が過料を申し付けられます。
この中には、問屋年寄・矢島八郎右衛門も入っていましたが、心労が重なったものか騒動の最中に病死しています。

その子・矢島八郎はその時14歳でしたが、断食をして父の死を嘆き悲しむその姿を見て、感動しない者はなかったといいます。

八郎は、八郎右衛門を襲名して問屋年寄見習となり、明治と変わってからは戸長となって町政に携わるようになります。
明治六年(1873)には、運輸業「中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社」を設立して高崎-東京間に郵便馬車を走らせるなどの事業を興しますが、心はいつも苦しかった新町の発展を願っていたに違いありません。

明治十四年(1881)に設立された日本鉄道会社により、上野-前橋間に鉄道が敷設されることを知った八郎は、逸早く「高崎停車場」新町誘致に動きます。
高崎各町からの誘致話もあったであろう中、八郎高崎中の人々の同意を得て、新町「高崎停車場」を誘致することに成功したのです。



停車場建設用地は矢島八郎が寄附し、中山道へのアクセス道路となる土地は町の有志が寄附し、停車場の建物は高崎町民の寄付により建設されました。
そこには、「御伝馬事件」により辛酸を嘗めてきた新町への厚い温情があったのです。

後にそのことについて、八郎自身が「御伝馬事件の概要」の中でこう述懐しています。

日本鉄道会社の高崎停車場位置を撰擇せらるゝや、新町の住民は勿論、高崎在住の官公吏及び有志者は、停車場位置を新町接近地に、其入口道路を新町に設くるを適当なりとし、何れも居町或は情実と云ふ観念を忘れ全駅(全高崎)は公費を投じ、有志諸氏は寄附を為す等、その歩調を一にして運動尽力せられたるは、従来新町住民が御伝馬継立の為に苦心奮斗したる為なりと云ふべきも、当時の在高官吏公吏有志者が公誼に篤く且高崎を一団視したる公平無私の態度は大に称揚すべき異徳と云ふべきなり。

不肖八郎は此御伝馬事件関係者の相続者のみならず、其後半に関係を有するを以て、諸氏の祖先、或は其専従者とが御伝馬継立の為に一身を犠牲に供したる芳志に対し謝恩の法会を修し、在天の霊魂を弔慰するに臨み、聊か其の事件の梗概を叙し併せて追悼記念の為め御伝馬事件の碑を建設す。

此事件を忘れたる者或は此事件を知らざる者に対し、諸氏の祖先或は其先住者が、自町愛護の念慮が如何に旺盛なりしかを知らしめ、諸氏が其祖先或は先住者の恩義を忘却せざらん事を望む、敢て一言し以て告ぐ。」

また、新町の危機を救った中島伊兵衛、関根作右衛門両氏等についても、このように述懐しております。

この両氏の厚意に対し町内の者も皆決心(御役御免の請願)を翻し、御伝馬継立等出精相勤まる事に相成りたり。
両氏等の厚意に対しては新町住民たる者銘肝して長く忘却すべからざる事なり。」

この「御伝馬事件」がなかったら、また高崎中の人が新町の窮状に対する温情を持つことがなかったら、「高崎駅」は今の場所にはなかったかも知れません。

あの町外れに造った「高崎停車場」の周辺は、今や高崎市の中心市街地へと変貌しました。
反面、新町の窮状に同情して誘致を禅譲したかつての中心市街地は、シャッター通りへと変貌しています。

さて、もしも矢島八郎があの世から蘇ったとしたならば、今の高崎に何を思い、何を為すのでありましょうか。

長い話を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

(参考図書:「文久慶応年間 高崎御傳馬事件」)


【御伝馬事件之碑】







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この記事へのコメント
あら町の歴史を紹介して下さって、ありがとうございます。
Posted by 元氣が一番!元氣が一番!  at 2014年09月07日 09:17
「諸氏が其祖先或は先住者の恩義を忘却せざらん事を望む」

心に沁みます。

今があるのはそのお陰だということを、謙虚に受け止めたいですね。
Posted by かめだ  at 2014年09月07日 10:00
>元氣が一番!さん

どういたしまして。
私、新町生まれなもんですから。
4歳くらいまでしか居ませんでしたけど、愛着はあるんです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月07日 17:41
>かめださん

沁みますね。
恩を返すことは出来ませんが、恩を送ることは出来ますよね。
このブログで、こんなことがあったんだということだけでも知って欲しいです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月07日 17:45
こんにちは。個人的には知られざる話でした。新町の苦難の歴史を知る事ができ興味深かったです。五万石騒動もそうですが、高崎藩は本当に無慈悲ですね。まあ、高崎だけではないのでしょうが・・・。

それにしても高崎は中山道の雰囲気があまり残っていませんが、旅籠や見世物が禁じられていなければ、また違った景観が残されたかもしれません。せめて安中や板鼻くらいの風情はあっても良かったと思います。

高崎停車場設置の経緯を見ると、交通と繁華街の分離はこの頃から始まっていたのですね。それが高前バイパス開通と問屋町設置で決定的になり、現在のシャッター商店街に結びついたのだろうと思います。仕方がなかったとは言え、残念です。

新町は故人となった父が長年仕事をした場所で、私もずいぶん遊びに行きました。クリスマスに「鳥才」(こんな屋号だったと記憶しています)という鶏肉屋さんで蒸焼きを買ってもらうのが楽しみでした。

こうした歴史を知るにつけ、仕方ないとはいえ「あら町」にしてしまったのが残念に思えます。

http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo
Posted by SAC  at 2014年09月08日 08:09
旅人や参勤交代で賑わった中山道の各宿場にはそれぞれに、伝馬や助郷に関する訴状や文書が遺されて読む機会が多いので、興味深く拝見しました。
高崎駅には、現在のおしゃれな駅からは想像もつかないような歴史があったのですね^^。
Posted by 風子風子  at 2014年09月08日 09:07
>SACさん

「鳥才」で間違いありません!
私が生まれた家は、その隣です。
懐かしいですねー。

私も「あら町」という表記にしたのは、最悪だと思います。
「新(しん)町」を「多野新町」とすれば双方とも歴史が分かるようにできたんですけどね。
困ったもんです。

高崎の町づくりについては、仰る通りですね。
もはや、風情のある町並みにすることを諦めてしまっているようですが、歴史を大切にしていないこともその一因になっているように思います。
残念です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月08日 20:41
>風子さん

伝馬や助郷については、どこの地でも苦しめられたようですね。
それがもとで、一揆なども起きてるようですし。

高崎駅の駅舎は、現在の前の駅舎が一番かっこよかった気がします。
残しておきたい駅舎でした。
残念です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月08日 20:45
駅(停車場)が開設された時はまだ市(高崎驛)の外だったのですね。

数年前まで高崎駅のキオスクで買物をすると“高崎市江木町字中冲”と住所の書かれたレシートが出ました。ちょうど西口と東口の真ん中あたりにあったお店です。
八島町でもなく栄町でもなく不思議な住所だと思っておりましたが、今この地図を見ていると鉄道用地なので地籍上どちらにも属さない江木町の字名になってしまい、奇しくも市外だった頃の名残が見られたのかと思います。



新町(旧多野郡)は“多野新町”がしっくりすると私も同じくなのですが、“新町宿”も良いかなと思っております。
また、過去に整理されてしまった笛木町や宮本町、橋場町復活の好機でもあったのではないでしょうか。



そう言えば高崎は過去にも二つの“新町”問題を経験しているそうですが(“あらまち”と“しんちょう”)、紛らわしいので新しい方を“真町”にした経緯も「歴史は繰り返す」なのだなあと。


長々失礼いたしました。
Posted by ふれあい街歩き  at 2014年09月09日 00:41
>ふれあい街歩きさん

「字仲沖」というと、江木橋から東町にかけての地域ですね。
昔は、赤坂村でしたね。
「向仲沖」という字もあって、これがちょうど東口の東三条通を挟んだ区域なので、そのどちらかに鉄道弘済会の高崎支社があったのかも知れませんね。
それにしても、レシートに字名まで表示されるというのは知りませんでしたが、いいですねー。
個人的には、字名表記を復活させた方がいいと思っていますので。

そうそう、「真町」は明治になるまで「新町」と表記されていたようですね。
当時の庶民は文字を読めない人も多かったから、同じ字を使ってもあまり混乱はなかったのかも知れませんが。
それにしても、「あら町」はいけません(`´)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月09日 16:44
あら町の延養寺さんで御伝馬事件の法要を行って来ました。
Posted by 元気が一番!  at 2017年09月26日 16:50
>元気が一番!さん

どうも、ご無沙汰です!

法要が。
そうでしたか。
新町(あら町)の先人に思いを馳せるとともに、
新町(あら町)を救った他町の先人への恩義にも、思いを馳せる機会になるといいですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年09月26日 19:26
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