2009年02月14日

寝観音(ねかんのん)

寝観音(ねかんのん)聖石橋を渡り、観音山に向かって進むと、「片岡の歴史碑」と書かれた、道祖神のある五本辻に出る。

片岡小学校から真っ直ぐ清水寺の石段へ向かう、いわゆる観音道路ができたのは意外と最近のことで、昭和7年ということだ。

それ以前は、片岡小学校の角を右折して、大きく左折しながら、この道祖神の辻に出てきていたようだ。
その頃、清水寺へ行くには、この辻から「有賀園ゴルフ練習場」の跡地に沿った道を進み、新川に架かる小さな橋を渡ることになる。

寝観音(ねかんのん)今、その橋から右手方向をみると、お堂が見える。

これが、「指出の寝観音」(さしでの・ねかんのん)である。

この「寝観音」は、子どもの夜泣きや、頭痛不眠症など「寝られない」悩みに大変ご利益があるということで、昔は遠来からの参詣者も多かったそうであるが、今はすっかり忘れられてしまったようだ。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、ここの観音様にはがたくさん奉納してあり、お願いをする人がそのを借りていき、治った時には新しいを付けて返したという。

寝観音(ねかんのん)閉ざされた扉から中を覗き見ると、奥のガラス戸棚の中に、それらしいが積まれているのが見える。

ところで、片岡の地域には、指出(さしで)姓を持つ人が多い。

内山信次氏著「新撰高崎三十三観音」によると、大同2年(807年)坂上田村麻呂の命を受けた指出藤太夫という人が、この地に十一面観音を、翌3年(808年)清水寺に千手観音を造立して、この地に土着したのだという。

実はもうひとつ面白い話が伝わっている。
藤太夫の娘姉妹が都から下って来て、の姫が「寝観音」に、の姫が山に登って「清水の観音」になったのだという。

さらに、別のこんな言い伝えもある。
「指出の観音様」は三人姉妹で、姉と妹がいたという話だ。
そして、妹が清水寺の千手観音、姉は元島名にある福聚堂(ふくじゅどう)の千手観音になったというのだ。

いずれにしても、いかに名前が「寝観音」とはいえ、このまま寝かせておくには実にもったいない「観光資源」である。
しかし、指出家個人の持ち物ということもあるが、この「観音堂」は通りから奥まっていて、ちょっと気づきにくい。

できれば高崎市として、入口に案内看板でも立てさせてもらい、観音山「石段コース」の名所として紹介してほしいものである。



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Posted by 迷道院高崎 at 07:16
Comments(4)◆高崎探訪
この記事へのコメント
すごいっすね。
どんどん観光資源が増えていきますね。
で、いつ会合を開きましょうか・・・。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年02月14日 07:24
>弥乃助さん

ははは、会合ですかー。
そうですねー、いつにしましょう?
低額給付金しだいですかねー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年02月14日 18:28
オゥッ!!

会合=定額給付金・・・・・いいですね!!

ところで、若かりし井伊直政は家康の新宿二丁目だったとか。
きっと、箕輪城や高崎城へもお忍びで褥に・・・・・

いやいや、ここ高崎、とんでもない歴史のミステリーに包まれてるやも・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年02月15日 08:51
>昭和24歳さん

さすが裏通の昭和24歳さん、「新宿二丁目」ですかー。
そういえば、柳川町に「歌麿」なんてのもありましたね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年02月15日 11:00
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寝観音(ねかんのん)
    コメント(4)