2014年07月20日

例幣使街道 寄道散歩(17)

久し振りの、例幣使街道です。

とは言うものの、下斉田の信号から関越自動車道の下を潜ればすぐ玉村で、迷道院高崎のテリトリーもここまでとなります。





高崎玉村の境となるのが、「滝川」です。
この「滝川」に沿って北へ向かう道は、「佐渡奉行街道」だそうです。



もともとは、中山道本庄で分かれて、玉村~総社~渋川というルートを辿る「三国街道」の本道でしたが、元禄・正徳の頃に高崎から金古を通るルートが整備されると、旅人はみなそちらを通るようになって、こちらは脇往還というか裏街道というか、そんな感じになりました。
しかし、なぜか佐渡奉行が赴任する時にはこの道を使ったので、いつしかこちらを「佐渡奉行街道」と呼ぶようになったのだとか。


面白いのは、佐渡奉行として赴任する時は「佐渡奉行街道」を使うのに、江戸へ戻る時にはこの道を使わず、北国街道から中山道を使うのだそうです。
どうやら、江戸へ戻る時には佐渡の金銀輸送も兼ねたようで、途中宿泊する際には、金銀を一時保管する「御金蔵」が必要となる訳ですが、「佐渡奉行街道」にはそれがなかったからという理由のようです。

因みに、高崎本町には、その「御金蔵」がありました。
「高札場」のあった問屋年寄・梶山家が他所へ移り、成田山光徳寺の参道が通る明治十年(1877)までここにあったのです。


「佐渡奉行街道」を通って佐渡へ渡ったのは奉行だけではなく、多くの無宿人もそうでした。
捕えられた無宿人は年一回にまとめられ、唐丸籠に入れられて佐渡金山へ送られ、過酷な労働を課せられます。
玉村宿もそうですが、無宿送りを迎えた宿では万が一逃亡でもされたら大変と、不寝番を立てて厳重な警戒がなされたようです。

「佐渡奉行街道」は、例幣使街道から80mも行くともう草ぼうぼうで進むことができません。






旧状を留めている所の少ない「佐渡奉行街道」ですが、「昭和大橋」の近くの萩原町にはその面影が残っているらしいです。
そういえば、5年前に「大笠松と渡し舟」という記事で、この辺のことを書いた事があります。

さてさて、例幣使街道高崎境まで来て、踏ん張ってます。
次回も、もうひと踏ん張りして、「滝川」のことについてお話ししたいと思います。


【本町の御金蔵があった所】






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この記事へのコメント
新町宿を通る加賀街道が出来る前は、倉賀野から玉村廻りの道筋が中山道であったそうですが、この例幣使街道がその一部なのでしょうか。
Posted by ふれあい街歩き  at 2014年07月22日 21:34
>ふれあい街歩きさん

 >倉賀野から玉村廻りの道筋が中山道であったそうですが、

あー、そうだったんですか。
それは知りませんでした。
道筋としては例幣使街道ですよね。
もともとは東山道や鎌倉街道だったんでしょうけど。
それが21世紀の今日まで残っているというのも、すごいことですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年07月23日 07:00
迷道院高崎さん

>もともとは東山道や鎌倉街道だったんでしょうけど。


鎌倉街道で気が付いたのですが、玉村に八幡様が祀られていて、鎌倉街道が各地の八幡宮を繋ぐ道筋だったことを考えると、もともとこの道は鎌倉道であったのかも知れませんね。
古代には東山道であり、中世には鎌倉街道、その後中山道を経て例幣使街道になったとは、道の歴史は興味深いです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2014年07月23日 20:11
>ふれあい街歩きさん

玉村から八幡原にかけて、鎌倉街道の言い伝えが結構残ってますね。
それらのどこを通っても角渕八幡宮に収束します。
玉村八幡宮も、角渕八幡宮を移した神社ですしね。

現代人も、知らず知らず昔の道を通ってるんでしょうね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年07月23日 23:41
利根川沿いに佐渡奉行街道とよばれる街道があったのですか、はじめて知り興味深く読ませて頂きました。
偶然、最近読んだ小説に「例弊使の共には無宿や長脇差(ながどす)がまぎれこんでいて、えげつなく銭をかき集めたり、強請り(ゆすり)たかりのような横暴さで沿道の宿場を困らせ、江戸へ着いても貪欲に稼ぎまくった・・・」というような文章を読みました。
ちなみに乗っている駕籠をわざとゆすって金品を要求したことが「強請り(ゆすり)」の語源だとか。
今までは静々と街道を行く例弊使の行列をイメージしていましたが、内情は大違いだったようです^^。
Posted by 風子風子  at 2014年07月25日 09:11
>風子さん

どうも、そうだったようですね。
貧乏公卿も1回例幣使をやればひと財産残せたとか。
虎の威を借りて悪行三昧の輩もいたでしょうね。

先日、「歴史秘話ヒストリア」で加賀藩の参勤交替を取り上げてましたけど、面白かったですね。
つくづく、家康という人は頭のいい人だと思いました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年07月25日 18:41
利根川に渡し舟を出す場所がたしかにあるな
へえ、街道かあ
本当にそうなら面白いですね(^^)
地域の伝承とはまた違う歴史小説かなあ
Posted by 通行  at 2014年07月26日 02:20
>通行さん

コメント、ありがとうございます。
車社会の到来で、渡し舟も消えていきましたが、島村の渡し舟は田島弥平旧宅が世界遺産になったことで一躍脚光を浴びているように、残すことで子々孫々に恩恵を与えています。
伝承とか歴史も、そういうものなのかなぁと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年07月26日 08:02
>通行さん

 >行政の手腕の違いを感じます(笑)

いろんなことが中途半端なんですよね。
過去記事で「あり過ぎし町高崎」というのを書きましたが、現状でそこそこ済んでしまうのが高崎という町なんです。
危機意識が乏しいところからは、生まれるものも乏しいのでしょうね。

ご指摘、ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年07月27日 09:44
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