2014年06月22日

例幣使街道 寄道散歩(14)

小栗又一主従の墓がある下斉田阿弥陀堂
入口に建つ石柱に、「小栗上野之介殿父子之墓地入口」と刻まれたことで、後に論争が起きることとなります。

又一の養父・小栗上野介忠順権田東善寺に埋葬されていて、ここには墓石もないのに「父子之墓地」とは・・・という訳です。

昭和五年(1930)発行の「上毛及上毛人 第153号」に於いて、小栗上野介研究の先駆者・早川圭村が大正四、五年に書いたとされる一文が掲載されました。

近年下齋田村田口高義等は同村に小栗又一のみならず上野介殿の首級も埋葬しありと盛んに吹聽し、其の首級傳來の徑路を説て曰く、小栗父子の首級館林城本丸に於いて岩倉惣督の實檢を終り、將に法輪寺墓地に埋葬せんとせる刹那、高橋村人見宗兵衛・櫻井與惣次等掛りの者等へ手を廻し窃取の名にて下渡を受け、櫻井某と云へる者、潜に下齋田村に持參し、田口十七藏の倉庫中に隱匿し數年後、今の墓所に埋葬したる者なるが、憚る所ありて上野介の墓所は建立せざりしも現に其の首級を目撃し、且埋葬したる者も存命し居るなりと稱し居るも・・・」

と、小栗父子の首級が下斉田村に埋葬されているという説を紹介した後、圭村自身の取材に基づく論を述べています。

小栗父子首級の徑路を知らざる者は或は首肯すべきも現に法輪寺墓地を發掘し權田村迄來りたる高橋村稻岡政五郎、權田村塚越房太郎事次郎三郎は存命し、宗兵衛の男猪之丞の談と渡邊忠七の其の當時館林藩廰へ差出たる始末書寫と皆同一轍にして疑ふべき餘地なく、人見猪之丞に於て下齋田の説を非認する處より察するも、田口高義等の唱道する説は根抵なき誣説にして、信ずるに足らざるなり

と、小栗上野介の首級も下斉田に埋葬されているという説を否定しています。
明治四十五年(1912)に例幣使街道沿いに建てらた「小栗上野之介殿父子之墓地入口」の石柱が、後に阿弥陀堂に移設されたのも、このような指摘に配慮してのことかも知れません。

大正前期に早川圭村が、「館林法輪寺から小栗父子の首級を窃取したのは権田村民である。」とし、今はそれが定説となっている訳ですが、昭和五十九年(1984)に発行された「瀧川村誌」では、「伝説」の項ではありますが、「首級を窃取してきたのは下斉田村民である。」と記載されています。

一方領民としてはこの父子の悲惨な死を見過ごすに偲びず殊に下斉田村名主田口平八郎は、上野介在世中殊の外その寵を蒙っていたのでその情も一入切なるものがあったろうと想像がつく。
そこで彼は或夜ひそかに小者西原小平を伴って又一の首級を盗んで下斉田に持ち帰ったのである。この時の事情を筆者(田口輝美)は小平氏在世中彼より直接聞くことを得た。

小平氏の話によると四月九日だったと思うが、平八郎旦那が夕方突然来て蓑笠を着て足慥えで直ぐ出掛けるから支度しろと云われた。その夕方は小雨模様であった。
何処までお供をするかと聞くと黙って従いて来いと云われて鋤を持たせられた。
途中で若殿様の首を盗みに行く事を明かされたのである。持ち帰った首級は下斉田観音堂の境内に埋めたのであるが発覚するのを心配して数日後現在の阿弥陀堂に移埋したのである。」

実は小栗上野介の首級の埋葬地については平成になってもなお異説が出てきて、平成八年(1996)の上毛新聞「オピニオン21」には、こんな記事が掲載されました。


これには、東善寺村上泰賢住職がすかさず反論しています。


ただ、小栗上野介の首級の埋葬場所は、本当のところ何処なのかというのは謎に包まれているようなのです。
もういちど、早川圭村の記すところを見てみましょう。
(大正十二年発行「上毛及上毛人 第70号」)

以上(身首併埋の話)は、表面傳ふる所の説にして一説に依れば、小栗父子の墓地を發掘して他に一文の價値なき首級を窃取したる者は、必ず其縁故關係ある者ならんとは何人も直に想像する處なれば、權田、下齋田兩村へは如何なる鑿索のあるも知らざれば、暫く首級の所在を秘密とし、時機を見て其身首を一に爲すに如かずとして、下斉田村にては十七蔵の倉庫の土中に隱匿し數年後墓所に埋葬し、權田村にては觀音山上に地を相し土中深く隱匿し、目標として稚松を栽植したり。」

特に権田村中島三左衛門は非常に慎重な人物だったらしく、新政府が首級を取り戻しに来ることを予想して、仲間内にも知らせず入念な埋葬地偽装を行います。

三平次(改名後の三左衛門)は元來用意周到容易に人に許さゞる特質にて、一味の者より露顯せん事を惧れ、自分一己にて其れより直南方數十間の所に移し他に小栗家の寶物併せ土中深く埋め其上に大石を置き石の兩端に稚松二本を植て目標と爲したるが改葬するに至らず三平次死去し、其男(むすこ)喜平次のみ其所在を知りたるが又改葬するに至らずして喜平次頓死し、今は其所在を知る者なきに至りたるも、(略)
又觀音山上首級を埋めたる場所の見取繪圖もありたるが、喜平次頓死後如何に捜索するも見當らずと云へり。
如上の次第にて今は全く其的確の場所を知る事能はざるは遺憾の事と云ふべきなり。」

という訳で謎は残りますが、小栗上野介権田の地に、又一下斉田の地に首級共に埋葬されていることは間違いありません。

今は共に高崎となった両地区が、日本近代化の父・小栗上野介の知行地であったことを誇りに思い、その偉業を後世に伝えていくことが何よりの供養と思います。

今日は長い記事を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。





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