2014年06月15日

例幣使街道 寄道散歩(13)

例幣使街道に戻ってきました。

八幡原町交差点です。
前方の角地に、お堂が見えます。

そばまで行くと、真新しい大きなお堂と、小さなお堂が並んで建っていました。









大きなお堂には、下滝町にある慈眼寺の第53世住職・吉井良弘師の書で、「観音堂」と書かれた額が掛かっています。

中を覗いてみると厨子の中は空っぽで、写真が飾ってあるだけです。
盗まれちゃったのでしょうか。

小さなお堂には、「梅之木十一面観世音菩薩」という額があります。

この観音様については、「高崎の散歩道 第三集」にこのような記述があります。

八幡原交差点の北東側に、高崎市消防団第十九分団の詰所がある。その裏に小さなトタン張りの観音堂があり、中には十一面観世音の石仏が鎮座している。(中世の石仏とおもわれる)
通称、木の股観音の名の如く、以前は例幣使街道沿いの大木の根元に抱きかかえられていた。
その大木が枯死するに及び、村人たちは病除・滅罪・幸福を祈りながら、現在地に移したものといわれる。」

写真をよく見て頂くと、石の十一面観音像の脇に枯れた木の幹が置いてあるのが分かるでしょうか。
きっと、これが枯死した梅の木の幹なんでしょう。
もしかすると、「梅之木十一面観世音菩薩」と書かれている板も、そうなのかも知れませんね。

ところでこの観音堂には、小栗上野介の命により高崎藩に弁明に赴き捕えられて斬首された、養嗣子・小栗又一と家臣三人の亡骸が埋葬されていたといいます。
小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」で見てみましょう。

四人の首は牢屋敷近くの晒し場に梟首された。
又一の首は曝した直後に下ろされて首桶の中に入れられ、強い焼酎につけられた。
そして父・小栗上野介忠順の首と共に首実検の為、館林城内の総督府に送られることになり、四名の遺体は小栗の領地群馬郡権田村から組頭池田九平と、下斉田村の名主田口十七蔵(となぞう)等が貰い受けて、同村根小屋の観音堂に埋葬した。
その後晒された家臣三名の首も下げ渡されて、下斉田村墓地に胴体と共に葬られた。」
字前の誤り。字根小屋は昔の観音堂があった所。
埋葬したのは字前の現在地に移された観音堂。

館林に送られた小栗上野介又一の首級は、首実検の後も戻されることはなく、館林加法師(かぼし)の法輪寺境内に埋められました。

首を失った上野介の胴体は権田村東善寺の裏山へ、又一の胴体は下斉田村名主・田口十七蔵持ちの「観音堂」に埋葬されます。

しかし、「観音堂」例幣使街道沿いにあり、新政府軍や高崎藩の目につきやすいということで、すぐに村の奥にある「阿弥陀堂」の境内に移されます。

「観音堂」から北東220mほど入ったところに、「阿弥陀堂」はあります。







入口に、明治四十五年(1912)建立の「小栗上野之介殿父子之墓地入口」と刻まれた石柱が建っています。

お堂は傷みが激しいようで、建屋は傾き、戸を建て廻してあって中を見ることは出来ません。






でも、立派な鏝絵や篆刻された額を見ると、大切にされていたんだなと思います。

その「阿弥陀堂」境内の奥まった一角に、小栗又一と家臣達の墓があります。





又一の墓石には「慶応四戊辰年閏四月七日」、家臣の墓碑には「小栗父子幷臣下四十五年忌」と刻まれています。

小栗父子の四十五年忌供養は明治四十五年(1912)に大々的に行われたようで、百余名の寄進者により墓地を増築し、燈籠一対と玉垣、家臣の墓碑もその時建立されています。
「阿弥陀堂」入口の「小栗上野之介殿父子之墓地入口」の石柱もこの時造られ、初めは例幣使街道沿いに建てられていたのだそうです。

この石柱に刻まれた「父子の墓地」という文字が、後に物議を醸すことになるのですが、その話は次回ということに。


【観音堂】


【阿弥陀堂】






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この記事へのコメント
たしかに小さなお堂の梅之木十一面観音の脇に、枯れたような木があります。
よくぞ気が付かれたものだと感心致しました。私など、どこに行ってもさらっと上辺だけ見ているだけで、もっとよく観察しなければいけないなぁと、いつも反省材料をいただいております。

ところで、倉渕町の東善寺には小栗上野介忠順のお墓の案内板に、斬首後のいきさつに続いて「・・・館林の法輪寺境内に葬られた後、中島三左衛門等が首級を奪取し、一周忌当夜、この地に埋葬するに至った。すなわち、ここが小栗公の本墓である。」という記述があります。
最初は首と胴体がばらばらに埋葬されたなんてあまりにも惨いことなので、少し安堵しましたが、表に現われない事情はいろいろあるようですね。
Posted by 風子風子  at 2014年06月16日 09:08
>風子さん

当時、新政府軍の手で葬られた小栗父子の首級を奪還するなどということは、まさに命懸けだったと思います。
それだけ小栗さんが領民に愛されていたということでしょうし、領主の無念さを我がことのように考えられる領民の偉さにも頭が下がります。

奪還した首級を、再び新政府に取り返されることを懸念して、埋葬場所の偽装もしていたようですね。
それにしても、大変な時代でした。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年06月16日 20:14
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