「若宮八幡」から旧陸軍火薬庫の角まで戻ったところです。
右の道を真っ直ぐ行けば、八幡原の集落を抜けて例幣使街道へ、左の道を行けば岩鼻です。
右の地図でいうと、右下の「八幡原陸軍火薬庫」の「庫」の字の所にいます。
例幣使街道へ戻ろうと思ったのですが、ちょっとだけ、ちょっとだけ岩鼻方面へ行かせてください。
この地図では、まだ井野川に橋は架かっていませんが、今は立派な橋があります。
名前を「鶴亀橋」(つるかめはし)といい、昭和四十九年(1974)に架橋されています。
ずいぶん縁起のいい名前ですが、実は、この橋の下流に「鶴亀石」というのがあって、それに因んだ名前だそうです。
昭和五十九年(1984)発行の「瀧川村誌」に、こんな記述があります。
「鶴亀橋」の上から下流を眺めてみましたが、それらしい巨岩は見えません。
橋の下に人が見えたので、急いで降りて尋ねてみました。
「あぁ、昔はあったんだよ、おっきい石が。 今は、見えねぇと思うよ。」
土砂で埋まっちゃったんですか?と聞くと、
「井野川は普段はこういう静かな流れだけど、大雨が降るとすげぇかんね。動いたり、埋まったりするだんべね。」
というお話しでした。
「若宮八幡」の崖下にあったということですが、ちょうど井野川と烏川の合流点です。
烏川の流れも、あの大きな「聖石」でさえ埋もれさせてしまうほどですから、「鶴亀石」も二つの川の力には敵わなかったのでしょう。
それにしても、どんな形の石だったのか、見てみたかったですね。
橋を渡りきると右側に、何とも古めかしい門があります。
旧陸軍岩鼻火薬製造所の門なのでしょう。
当時なら、衛兵が銃剣を持って立っていたのでしょうが、今は監視カメラがその役を担っています。
終戦の翌年、「陸軍岩鼻火薬製造所」跡は「日本化薬(株)」に貸与され、黒色火薬と導火線の製造が行われていました。
「日本化薬(株)」が医薬品製造の新工場として高崎工場を新設したのは意外と最近で、昭和四十六年(1971)です。
「鶴亀橋」は、その3年後に架橋されたことになります。
さて、寄り道が過ぎました。
例幣使街道へ戻りましょう、戻りましょう。
右の道を真っ直ぐ行けば、八幡原の集落を抜けて例幣使街道へ、左の道を行けば岩鼻です。
右の地図でいうと、右下の「八幡原陸軍火薬庫」の「庫」の字の所にいます。
例幣使街道へ戻ろうと思ったのですが、ちょっとだけ、ちょっとだけ岩鼻方面へ行かせてください。
この地図では、まだ井野川に橋は架かっていませんが、今は立派な橋があります。
名前を「鶴亀橋」(つるかめはし)といい、昭和四十九年(1974)に架橋されています。
ずいぶん縁起のいい名前ですが、実は、この橋の下流に「鶴亀石」というのがあって、それに因んだ名前だそうです。
昭和五十九年(1984)発行の「瀧川村誌」に、こんな記述があります。
「 | 大字八幡原若宮八幡宮の崖下井野川の中に二つの巨岩がある。 名付けて鶴亀石といっている。 |
一つは其の形鶴に似てい、又一つは亀によく似ている処からかく名付けられたものと思われる。 | |
現在其の上流(井野川)に架けられた橋も鶴亀橋と名付けられている。 | |
昔は、この岩の辺は村の子供の水あび場として、親しまれていたが、今は川瀬も変わり岩の形も大分変わって来た様に思われる。」 |
「鶴亀橋」の上から下流を眺めてみましたが、それらしい巨岩は見えません。
橋の下に人が見えたので、急いで降りて尋ねてみました。
「あぁ、昔はあったんだよ、おっきい石が。 今は、見えねぇと思うよ。」
土砂で埋まっちゃったんですか?と聞くと、
「井野川は普段はこういう静かな流れだけど、大雨が降るとすげぇかんね。動いたり、埋まったりするだんべね。」
というお話しでした。
「若宮八幡」の崖下にあったということですが、ちょうど井野川と烏川の合流点です。
烏川の流れも、あの大きな「聖石」でさえ埋もれさせてしまうほどですから、「鶴亀石」も二つの川の力には敵わなかったのでしょう。
それにしても、どんな形の石だったのか、見てみたかったですね。
橋を渡りきると右側に、何とも古めかしい門があります。
旧陸軍岩鼻火薬製造所の門なのでしょう。
当時なら、衛兵が銃剣を持って立っていたのでしょうが、今は監視カメラがその役を担っています。
終戦の翌年、「陸軍岩鼻火薬製造所」跡は「日本化薬(株)」に貸与され、黒色火薬と導火線の製造が行われていました。
「日本化薬(株)」が医薬品製造の新工場として高崎工場を新設したのは意外と最近で、昭和四十六年(1971)です。
「鶴亀橋」は、その3年後に架橋されたことになります。
さて、寄り道が過ぎました。
例幣使街道へ戻りましょう、戻りましょう。
【鶴亀橋】