←円福寺山門から南へ150mほど行くと、すごい竹林が見えてきます。
竹林を過ぎて左に折れると、立派なお屋敷があります。↓
竹林は、このお宅のものだったんですね。
お屋敷の周りにはぐるっと堀が廻っていて、いわゆる環濠屋敷です。
後で調べてみたら、代々八幡原村の名主を務める原田家のお屋敷で、これから行く「若宮八幡」の宮守をずっとしていて、「お八幡(はちまん)」と呼ばれる由緒あるお宅でした。
「お八幡」の近くにも大きな家が沢山あり、昔の村の様子を想像することができます。
蔵の水路に面した扉から張り出したステップは、どんな使われ方をしたのか興味津々です。
さらに南へ200mほど行くと八幡原の集落を抜け、前方にこんもりした森が見えてきます。
あの森が「若宮八幡」のある所かなと思い、行ってみました。
来てみたら、厳重な柵に囲まれていて中に入ることはできません。
どうやら、ここではなかったようです。
集落に戻って、農作業中のご婦人に伺うと、
「あぁ、八幡原の八幡様かい。その道ぃ、真っ直ぐ行った突き当りだよ。」と言います。
「あの森のもっと先ですか?」と聞くと、
「そうそう、うん、すぐだよ、わきゃねえよ。」
ということなので、再び歩き始めました。
「わきゃねえ。」と言われましたが、延々と柵が続いていて、なっから先みたいですけど?
群馬県警本部が「火気厳禁・立入禁止」にしている柵の内側は、旧陸軍の火薬庫跡です。
玉村と岩鼻を結ぶ道を横切った先に見える森が、どうやら「若宮八幡」のようです。
「わきゃねえよ。」と言われたところから、700mでした。
たしかに、大した距離じゃありません・・・。
石柱にはただ「八幡宮」とのみ刻まれ、意外とこじんまりしています。
素朴ながら立派な神楽殿があります。
社殿も素朴で、いかにも村の鎮守様という佇まいです。
ところが中を覗いてみると、格子天井には色こそ褪せていますが、素敵な天井絵が描かれていました。
明治十六年(1883)発行「上野国群馬郡村誌」の八幡原村の項には、「往古ヨリ村内ニ八幡ノ社アルヲ以テ村名之ヨリ起ルト云フ」と書かれていますので、小さいながら、村名の由来となる由緒ある社なんです。
次回は、その由緒について少し詳しくご紹介いたします。
竹林を過ぎて左に折れると、立派なお屋敷があります。↓
竹林は、このお宅のものだったんですね。
お屋敷の周りにはぐるっと堀が廻っていて、いわゆる環濠屋敷です。
後で調べてみたら、代々八幡原村の名主を務める原田家のお屋敷で、これから行く「若宮八幡」の宮守をずっとしていて、「お八幡(はちまん)」と呼ばれる由緒あるお宅でした。
「お八幡」の近くにも大きな家が沢山あり、昔の村の様子を想像することができます。
蔵の水路に面した扉から張り出したステップは、どんな使われ方をしたのか興味津々です。
さらに南へ200mほど行くと八幡原の集落を抜け、前方にこんもりした森が見えてきます。
あの森が「若宮八幡」のある所かなと思い、行ってみました。
来てみたら、厳重な柵に囲まれていて中に入ることはできません。
どうやら、ここではなかったようです。
集落に戻って、農作業中のご婦人に伺うと、
「あぁ、八幡原の八幡様かい。その道ぃ、真っ直ぐ行った突き当りだよ。」と言います。
「あの森のもっと先ですか?」と聞くと、
「そうそう、うん、すぐだよ、わきゃねえよ。」
ということなので、再び歩き始めました。
「わきゃねえ。」と言われましたが、延々と柵が続いていて、なっから先みたいですけど?
群馬県警本部が「火気厳禁・立入禁止」にしている柵の内側は、旧陸軍の火薬庫跡です。
玉村と岩鼻を結ぶ道を横切った先に見える森が、どうやら「若宮八幡」のようです。
「わきゃねえよ。」と言われたところから、700mでした。
たしかに、大した距離じゃありません・・・。
石柱にはただ「八幡宮」とのみ刻まれ、意外とこじんまりしています。
素朴ながら立派な神楽殿があります。
社殿も素朴で、いかにも村の鎮守様という佇まいです。
ところが中を覗いてみると、格子天井には色こそ褪せていますが、素敵な天井絵が描かれていました。
明治十六年(1883)発行「上野国群馬郡村誌」の八幡原村の項には、「往古ヨリ村内ニ八幡ノ社アルヲ以テ村名之ヨリ起ルト云フ」と書かれていますので、小さいながら、村名の由来となる由緒ある社なんです。
次回は、その由緒について少し詳しくご紹介いたします。
【「お八幡」原田家】
【八幡原の若宮八幡】