2014年01月19日

高崎の絹遺跡(第五話)

高崎の絹遺跡(第五話)ここも、「高崎の絹遺跡」に登録したい場所の一つです。

旭町のガードを潜って東三条通に出たところ、現在の「群馬トヨタ」「高崎市労使会館」のある辺りです。

大正五年(1916)、ここに彼の井上保三郎氏ら高崎の有力者が、「龍栄社」という名前の製糸工場を創設しました。
「龍栄社」は、織物工場も兼営して絹織物も生産するというほどの規模で、「茂木製糸所」に次ぐ大きな製糸所でした。

井上保三郎氏らは、翌年にも「群馬紡績」を創設していますので、当時、保三郎氏が製糸業に対して並々ならぬ意欲を持っていたことが分かります。

高崎の絹遺跡(第五話)そこで、「龍栄社」の名前の載っている地図を探しましたが、見つかりませんでした。

昭和九年(1934)の高崎市街圖では、そこは「小口組製糸」となっていました。

第一次世界大戦後の不況により「茂木製糸所」信州諏訪「丸万製糸」に売却されたのと同様、「龍栄社」も大正十三年(1924)信州諏訪郡平野村(現・岡谷市)に本拠を置く製糸会社「小口組」に買収されていたのです。

高崎の絹遺跡(第五話)しかし、その「小口組製糸」もまた昭和初期の蚕糸恐慌による糸価暴落で、「丸万製糸」と同じ運命を辿ります。

「小口組製糸」が経営破綻に追い込まれたのは、奇しくも先の高崎市街圖が発行された昭和九年のことでした。

高崎の絹遺跡(第五話)「小口組製糸」の工場がいつ解体されたのかは分かりませんが、昭和二十八年(1953)の地図を見ると、その跡地は「山田興業」「群馬トヨタ」になっています。

「山田興業」の前身は、零戦の尾翼部品を製造していた「山田航空工業」という会社で、和昭十七年(1942)の創業です。

ですので、この地が「高崎の絹遺跡」になってしまったのは、昭和九年から十七年の間ということになります。

因みに、「山田航空工業」は、戦争が終わってすぐの昭和二十年(1945)九月に「山田興業」と改称し、事務機器を製造するようになります。
この会社がその後、国産初のホッチキスを開発して、世界に名を馳せる「マックス工業」(現マックス株式会社)となるのです。

大きくなった「マックス工業」が移転すると、その跡地は「高崎病院」になりました。

高崎の絹遺跡(第五話)そして、昭和四十一年(1966)旭町の踏切が地下道に変わり、好きだった蒸気機関車の転車台も、それを見ていた跨線橋もなくなって、いつの間にか「高崎病院」もなくなって、突き当りだった道は東三条通まで抜けました。

今はそのかけらも見当たりませんが、かつて、ここには高崎有数の製糸所があったことを、「高崎の絹遺跡」として登録しておきましょう。


【「龍栄社」があったところ】






同じカテゴリー(高崎の絹遺跡)の記事画像
高崎の絹遺跡(第四話)
高崎の絹遺跡(第三話)
高崎の絹遺跡(第二話)
高崎の絹遺跡
同じカテゴリー(高崎の絹遺跡)の記事
 高崎の絹遺跡(第四話) (2014-01-01 00:03)
 高崎の絹遺跡(第三話) (2013-12-08 09:37)
 高崎の絹遺跡(第二話) (2013-11-10 22:15)
 高崎の絹遺跡 (2013-11-06 08:48)

Posted by 迷道院高崎 at 14:04
Comments(10)高崎の絹遺跡
この記事へのコメント
マックス株式会社の前身が解り勉強に為りました
蒸気機関車の転車台、ラウンドハウスも、
懐かしく思い出しました。

高崎市は、由来ある町名を遺した、街ですね。

感服致しました。
Posted by wasada49  at 2014年01月19日 20:13
跨線橋は懐かしいです。
叔母の家が東町にあったので
街中に行く時はよく跨線橋を渡りました。
汽車の出す石炭の煙が妙に
思い出されます。

小学校の2年の時
友達の父がマックスに勤めていた関係で
手回し鉛筆削りを
教室に寄付してくれました。
削り終わるとスコンと軽くなる
あの感覚を思い出しています。
Posted by いちじん  at 2014年01月20日 17:31
>wasada49さん

城下町時代からの町名は、高崎の文化遺産です。
活かしきれてないのが残念ですけどね。

ところで、ラウンドハウスって何ですか?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年01月20日 20:05
>いちじんさん

私も、あの石炭の煙りは、思い出の匂いです。
跨線橋から、時間も忘れて機関車の入れ替えを見てました。

手回し鉛筆削りも、思い出ですね。
我が家では買えませんでしたが、学校の教室に1台づつありました。
どういう訳か赤鉛筆は、スコンと軽くなるまで回すと、芯が折れてしまうんですよね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年01月20日 20:13
いなか町から出掛けて行きますと、高崎駅周辺では都会を感じられて嬉しくなるのですが、この「高崎の絹遺産」シリーズで古い写真や多くの蚕糸関係会社があったことを教えていただき、あまりの変貌ぶりに驚くばかりです^^。
Posted by 風子風子  at 2014年01月20日 20:36
後れ馳せながらあけましておめでとうございます。


前に登場した工場も東三条通り沿いでしたが、明治期から昭和初期にかけて東口一帯は絹産業の集積地だったのですね。
その後の土地の変遷が絹産業から航空機産業(軍需)、そして事務機器などの民需へと、群馬の近代産業史そのものなのもとても興味深いです。


また本題とはずれますが、意外にも昭和8年の段階では江木町や東町がまだ高崎市に編入されず群馬郡赤坂村だったとは、辺りの風景は一変しても変電所とガスタンクは昔のままだったり、古地図の情報は初めて知る歴史が満載で面白いですね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2014年01月21日 00:06
「転車台」壮厳でしたね。間近に見るSL(スティーム・ロコモーティブ)駆動車輪は大人の背丈より高い。近所にそのSLの機関士のおじさんがいて、子供たちの憧れの的でした。そのおじさんの自慢話が「天皇お召し列車」の際の「運転」で、江木の踏切でそのおじさんがSLから僕らに手を振ったのが今でも脳裏に焼きついています。昭和31年頃、軽井沢へ向かう途中だったか。しかし、SLってすごいですよね、石炭と水だけであの迫力ですから(^^ゞ
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2014年01月21日 06:53
>風子さん

高崎でも田舎に住んでる私は、たまに町に出ると目まいがするくらいです(^_^)

報道によると今度は高崎駅の東側を変貌させるそうで、ひと昔前のドーナツ化の失敗を繰り返さなければいいがと危惧しています。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年01月21日 09:02
>ふれあい街歩きさん

昔の地図を見てると、飽きないですよね。

鉄道を通す時分は、敢えて町の中心部から外れたところに駅を造ったのでしょうが、工場の立地条件としては駅に近い所が良かったということだったのでしょうね。

今では、町の中心が駅に近い所に移ってきて、かつての中心市街地が寂れてきているのは、皮肉なことです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年01月21日 09:15
>昭和24歳さん

やっぱり近くに住んでいたから、思い出が深いですね。

昔は、踏切番のおじさんがいて、汽車が来る直前まで踏切を半開きにして、渡してくれましたよね。
人と人との関わりも、深い時代でした。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年01月21日 09:19
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
高崎の絹遺跡(第五話)
    コメント(10)