2009年01月28日

観音さまを産んだ「観水園」

竜見町の高台にあったという
「観水園」は、白衣大観音を建立した井上保三郎氏が晩年を過ごした井上家別邸である。

眼下に烏川を望み、その向こうには観音山丘陵が横たわる。

保三郎氏は、ここ「観水園」で観音山一帯を大公園にして、商工業都市高崎を、観光文化都市としてさらに発展させるという、壮大な計画を練り上げていた。
昭和8年(1933年)保三郎氏65歳の時には、同志を募って「観音山公園保勝会設立趣旨書」をまとめ、高崎市に働きかけを始めている。

だが、この時点ではまだ「大観音像」を建てるという構想は持っていなかったようだ。
趣旨書の標題にある「観音」とは、石段上の清水寺観音堂を指していると思われる。

保三郎氏は、「何か大きな物」を山上に建てようと思ったものの、何にするか決めかねたのか、東京帝国大学農学部の原熙教授に相談している。
教授からは、五重の塔三重の塔がいいだろうと言われたそうだが、結局、保三郎氏が子どもの頃から信仰してきた「観音さま」に決めたという。

おそらく、単なる「大きな物」ではなく、「観音さま」の慈悲による衆生の救済と、度重なる事変(戦争)から平和な世になることを願ってのことだろうと推察する。

白衣大観音の開眼が済んだ2年後、保三郎氏は「観水園」で、70年の生涯を閉じた。
保三郎氏が描いた壮大な「観音山大公園」計画は志半ば、未完のままとなっている。

井上家では、「観水園」を修復し、記念館として末永く保存したいという意向を持っていたようだが、その思いも虚しく売却されて、今はモダンな家が建っている。
高崎市として何とかならなかったものかと、実に残念な思いである。
わずかに、当時を偲ばせる建造物が近くに残っていることが、せめてもの救いである。

しかし、これとて、いつまで残してもらえるか・・・。


路傍のお地蔵様に、ただただお願いするばかりである。



(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)



同じカテゴリー(観音山)の記事画像
駅から遠足 観音山(72)
駅から遠足 観音山(71)
駅から遠足 観音山(70)
駅から遠足 観音山(69)
高野山へ行ってきました(2)
高野山へ行ってきました(1)
同じカテゴリー(観音山)の記事
 駅から遠足 観音山(72) (2016-05-08 06:55)
 駅から遠足 観音山(71) (2016-05-01 07:11)
 駅から遠足 観音山(70) (2016-04-24 07:23)
 駅から遠足 観音山(69) (2016-04-17 07:17)
 高野山へ行ってきました(2) (2016-04-10 07:05)
 高野山へ行ってきました(1) (2016-04-03 07:10)

Posted by 迷道院高崎 at 07:48
Comments(4)観音山
この記事へのコメント
高崎市というのはどうして古いものを壊したがるのでしょうか?
哲学堂も大変みたいだし・・・。
松浦さん、何とかしてよ!
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年01月28日 20:14
>弥乃助さん

本当に、古い物を壊すのが好きですね。
やはり、どこかに利権が絡んでるんでしょうかね?

流石に、音楽センターは慎重に取り組んでいるようですがね。
人が旅をする時に、どんな風景を見たいのか考えれば、すぐ分かることなんですがねー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年01月29日 16:00
噂にきくと、松浦さんは目に見えて、栄える物にしかお金を使いたがらないとのこと。
新町にあるカネボウの世界遺産の関係で一度話を持ち上げて、申請したけど、全く相手にしてくれなかったとのこと。あの方は文化にはお金は使えません。
Posted by dendenmusi  at 2009年09月22日 00:18
>dendenmusiさん

ブログをお目に留めて頂き、ありがとうございます!

松浦市長さんとは、仕事の関係で2度ほどお話させて頂いたことがありますが、お人柄はとても気さくな感じを受けました。

ただ、仕事となるとその方の価値観もあるので、難しいところですよね。

ひとつの価値観だけが、長く続き過ぎるということが問題なのかも知れません。

コメントありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月22日 07:22
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
観音さまを産んだ「観水園」
    コメント(4)