「時の鐘」というと、ほとんどの方が埼玉県川越市のそれを思い浮かべるのではないだろうか。
川越は、土蔵造りなどの古い街並みが残されており、街全体が「テーマパーク」のようである。
いつも沢山の観光客で溢れ、活況を呈している。
「町興しは、町残し」の、まさにお手本のような街である。
あー、高崎にもこんなのがあったらなぁ。
と思うが、実は、高崎にも「時の鐘」はあったのである。
右の写真がその証拠である。
場所は、中紺屋町(なかこんやまち)の「玉田寺(ぎょくでんじ)」。
「玉田寺」については、グンブロ仲間の弥乃助さんにお任せしよう。
この鐘楼は、もともとは高崎城内西の丸(西郭)にあって、時を報じていたという。
しかし、そこは樹木が多く鐘声がよく聞こえないというので、最初は「玉田寺」の隣の「石上寺」(今は無い)境内に移したのだそうだ。
鐘楼の傍には、小屋もあって、そこには常に5人の鐘つきがいたという。
この鐘楼は度々火災で焼けているそうで、場所を「玉田寺」境内に移して新築されたのは明治14年(1881年)とある。
鐘楼の高さが約11mと、当時としては高い建物なので、火の見やぐらとしても役に立ったようだ。
高崎市民に時を告げていた鐘は、戦時中の「物資供出(きょうしゅつ)」で、人殺しの道具に変身されてしまい、鐘を失った鐘楼も、戦後間もなく取り壊されてしまった。
そして今は、こんな殺風景な景色になってしまっている。→
嗚呼!それにつけても、それにつけても。
川越は、土蔵造りなどの古い街並みが残されており、街全体が「テーマパーク」のようである。
いつも沢山の観光客で溢れ、活況を呈している。
「町興しは、町残し」の、まさにお手本のような街である。
あー、高崎にもこんなのがあったらなぁ。
と思うが、実は、高崎にも「時の鐘」はあったのである。
右の写真がその証拠である。
場所は、中紺屋町(なかこんやまち)の「玉田寺(ぎょくでんじ)」。
「玉田寺」については、グンブロ仲間の弥乃助さんにお任せしよう。
この鐘楼は、もともとは高崎城内西の丸(西郭)にあって、時を報じていたという。
しかし、そこは樹木が多く鐘声がよく聞こえないというので、最初は「玉田寺」の隣の「石上寺」(今は無い)境内に移したのだそうだ。
鐘楼の傍には、小屋もあって、そこには常に5人の鐘つきがいたという。
この鐘楼は度々火災で焼けているそうで、場所を「玉田寺」境内に移して新築されたのは明治14年(1881年)とある。
鐘楼の高さが約11mと、当時としては高い建物なので、火の見やぐらとしても役に立ったようだ。
高崎市民に時を告げていた鐘は、戦時中の「物資供出(きょうしゅつ)」で、人殺しの道具に変身されてしまい、鐘を失った鐘楼も、戦後間もなく取り壊されてしまった。
そして今は、こんな殺風景な景色になってしまっている。→
嗚呼!それにつけても、それにつけても。
(参考図書:「高崎漫歩」)
【鐘楼跡】