宮元町にある「高崎山竜広寺(龍廣寺)」。山号の「高崎山」には、有名な由来がある。
「竜広寺」は、箕輪城主だった井伊直政が和田(高崎の旧称)に城を移した際、箕輪から白庵(びゃくあん)和尚を招請して開山したという。
直政は和田という地名も改めることとし、「松ヶ崎」にするか「鷹ヶ崎」にするか決めかねて、和尚に相談した。
和尚は、「松」も「鷹」も生き物は必ず死ぬものだから、「高」の字を用いて「高崎」とするのが良いだろう、と答えたそうだ。
白庵和尚によって「高崎」の地名が決まったことから、「竜広寺」の山号は「高崎山」となったという話だ。
ここ「竜広寺」には、「元ロシア兵の墓」というのがあり、高崎市の指定史跡になっている。ここに眠る3人のロシア兵は、明治37年(1905年)の日露戦争に於いて捕虜となり、「竜広寺」に収容されてのち亡くなった兵士である。
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当時、高崎には500人を超える捕虜が、市内の寺院などに収容されていたという。
日露戦争では、高崎第15連隊が旅順港攻撃に参戦し、
3日間に及ぶ「164高地」の激戦で、568人もの犠牲者を出してついに陥落させた。
「164高地」は、その功を讃えて、奇しくも「高崎山」と名付けられたのだそうだ。
「ロシア兵の墓」がある一角は、もともと「陸軍墓地」であった。現在の国立高崎病院が「衛戍(えいじゅ)病院」(陸軍病院)であった頃、ここで亡くなった人218人の墓石が、3人のロシア兵の墓石と共に並んでいる。

「竜広寺」の片隅に、蝋梅と紅梅の花が、ひっそりと並んで咲いていた。
ちょうど、ロシアの兵士達と、日本の兵士達が、敵味方を越えて一緒に眠っているように。
「この日、われわれが集ったのは、恐怖より希望を、いさかいや不和を超越した共通の目的の下に団結することを選んだからだ。あまりにも長い間、この国の政治を窒息させてきた卑小な恨み言や偽りの約束、非難の応酬や使い古されたドグマ(教義)に別れを告げる。」
(バラク・フセイン・オバマ・ジュニア)
(参考図書:「高崎漫歩」「開化高崎扣帖」)






at 2009年01月23日 20:14







