昨日「地獄堰」だったので、今日は上中居町にある「極楽寺」と洒落てみた。
正しくは「美濃院反町山極楽寺」というようだが、中世の時代、ここは「反町屋敷」と呼ばれる広い武家屋敷の一角だったそうだ。
寺の開基は、屋敷の主の反町美濃守信直(そりまち・みののかみ・のぶなお)とあるので、寺の名前がそうなったのだろう。
私が開基なら、さしずめ「迷道院高崎山恐妻寺」となるところだ。
この「極楽寺」の境内に、「笑地蔵(えみじぞう)」というのがある。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、古い記録には「本村南田甫ノ中字咲地蔵、仏躯自然石」とあって、もとは自然の石を「お地蔵様」として、祀っていたようだ。(「咲」は「笑」の本字とある。)
現在、「お地蔵様」の線刻画が彫られた板碑の土台が、その自然石なのだろうか。
板碑の後ろには、「昭和三十七年三月吉日 通町 二世 富田幸太郎建」と読める文字が刻まれているから、この時に板碑と合体されたのかも知れない。
さて、今日のタイトルの「なきんぞう」なのだが、
昔の人は、子どもの「夜泣き」に困った時、「笑地蔵」に供えてある一尺ほどの木片を借りてきて、子どもの枕元へ置き、夜泣きが治ると、借りたものに添えて子どもの名前などを書いた木片を供えたという。
「夜泣き」を治す「お地蔵様」は、いつの間にか「泣き地蔵」→「泣きん蔵」と呼ばれるようになったのだそうだ。
今は、そのことを知る人も少なくなったのだろうか。
「笑地蔵」の前に、木片は供えられていなかったが、「高崎漫歩」に掲載されている写真には、はっきりと写っている。
少なくとも、昭和の時代までは「笑地蔵」に救われた人達がいたのだろう。
昔の人は、「お地蔵様」にすがってまで、子どもに「笑み」が欲しいと願っていた。
さて、科学万能といわれる現代、子どもの「笑み」はどのくらい増えたのだろう?
もしかして、泣かしてばかりいないだろうか?
「子どもが笑う」前に、「子どもに笑われる」大人にだけは、ならないようにしよう。
正しくは「美濃院反町山極楽寺」というようだが、中世の時代、ここは「反町屋敷」と呼ばれる広い武家屋敷の一角だったそうだ。
寺の開基は、屋敷の主の反町美濃守信直(そりまち・みののかみ・のぶなお)とあるので、寺の名前がそうなったのだろう。
私が開基なら、さしずめ「迷道院高崎山恐妻寺」となるところだ。
この「極楽寺」の境内に、「笑地蔵(えみじぞう)」というのがある。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、古い記録には「本村南田甫ノ中字咲地蔵、仏躯自然石」とあって、もとは自然の石を「お地蔵様」として、祀っていたようだ。(「咲」は「笑」の本字とある。)
現在、「お地蔵様」の線刻画が彫られた板碑の土台が、その自然石なのだろうか。
板碑の後ろには、「昭和三十七年三月吉日 通町 二世 富田幸太郎建」と読める文字が刻まれているから、この時に板碑と合体されたのかも知れない。
さて、今日のタイトルの「なきんぞう」なのだが、
昔の人は、子どもの「夜泣き」に困った時、「笑地蔵」に供えてある一尺ほどの木片を借りてきて、子どもの枕元へ置き、夜泣きが治ると、借りたものに添えて子どもの名前などを書いた木片を供えたという。
「夜泣き」を治す「お地蔵様」は、いつの間にか「泣き地蔵」→「泣きん蔵」と呼ばれるようになったのだそうだ。
今は、そのことを知る人も少なくなったのだろうか。
「笑地蔵」の前に、木片は供えられていなかったが、「高崎漫歩」に掲載されている写真には、はっきりと写っている。
少なくとも、昭和の時代までは「笑地蔵」に救われた人達がいたのだろう。
昔の人は、「お地蔵様」にすがってまで、子どもに「笑み」が欲しいと願っていた。
さて、科学万能といわれる現代、子どもの「笑み」はどのくらい増えたのだろう?
もしかして、泣かしてばかりいないだろうか?
「子どもが笑う」前に、「子どもに笑われる」大人にだけは、ならないようにしよう。
【極楽寺】