2013年07月14日

美加保丸遭難で、高崎藩遭難(2)

美加保丸の乗組員を逃してしまった高崎藩は、九月十七日に新政府総督府から呼び出しを食らいます。

大総督府ヨリ御呼出ニ付、公務人菅谷團次郎罷出候処、大総督府から呼び出され、菅谷團次郎(すげのや・だんじろう)が罷り出ましたところ、
応接方桑原虎次郎ヲ以、左之通御書付御渡有之ニ付、応接方の桑原虎二郎によって、左記の書付けを渡されましたので、
至急藩地江申達候処、御請書差出之」至急藩へ申し伝えますと、請書を差し出しました。)

新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

総督府から渡された書付けには、こう書かれていました。
先般脱艦之賊徒、其方領分総州銚子浦漂着上陸之砌、先般、船で脱走した賊徒が、高崎藩領の銚子浦に漂着し上陸した時、
取締向等閑数日滞留為致、其末及脱走之段、取締りがなおざりで、数日滞留させ、その末に脱走させ、
全其藩不行届候条、依之謹慎可有之旨、御沙汰候事」全く、高崎藩の不行届きである、よって謹慎すべきとして沙汰する。)

新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

殿様の謹慎というのは、事実上どんなものなのか知りませんが、ともかく、おっつぁれて(上州弁:怒られて)しゅんとなったことは間違いないでしょう。

高崎藩主・大河内輝聲(おおこうち・てるな)の謹慎が解かれたのは、十月五日のことでした。
其方儀謹慎申付置候処、被免候旨、御沙汰候事」そのほうに謹慎を申し付けておいたが、赦されたことを沙汰する。)

銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

18日間の謹慎を解かれた輝聲は、翌日急いでお礼の書面を送ります。
私儀謹慎被仰付置候処、被免候旨御沙汰之趣、私儀、謹慎を仰せ付けられておりましたが、免じられるとのこと、
難有仕合奉存候、右御請申上候」有り難く幸せに思って、お受け申し上げます。)

銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

お殿様がこんな状況ですから、領民だってあまり目立つ事は出来ません。
美加保丸の遭難者13名を埋葬した塚に、墓を建てるということもできなかったようです。


「脱走塚」と呼ばれるその塚には、現在では沢山の石碑が建っていますが、最初に建てられた墓碑は明治二年(1869)、建立者は銚子のヒゲタ醤油創業者・田中玄蕃という人だそうです。


なんせ激しい風雨に曝される「脱走塚」、石碑もこんな状態になってしまいますので、どれが田中玄蕃の建立したものか分かりません。

ひときわ大きな墓碑は、美加保丸の生存者や縁故者によって、明治十五年(1882)に建立されたものです。

表面には「南無阿弥陀仏」、側面には事件の顚末が刻まれていますが、これも風雨に削られて判読困難になっています。

そこで、昭和十三年(1938)黒生の青年団が寄付を募り、読めなくなった碑文を復刻した大きな石碑を建てました。




さらに昭和二十五年(1950)には、法要と共に広く世に伝えて観光・有識者の参考に供しようと、「史蹟美ケ保丸乗組員□難志士之碑」を建てていますが、それもまた風雨の前にあっては、ご覧の有様です。

しかし、今もなお献花を絶やさず供養し続ける地元の方々に、深く頭を垂れる思いであります。

ところで、美加保丸の乗組員を取り逃がしてしまった銚子陣屋郡奉行は、だいじょうぶでしょうか?

次回に続きます。





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この記事へのコメント
江戸時代には、太平洋での捕鯨が盛んになったことから、日本近海での外国船の遭難や、逆に和船の遭難で弧島に取り残された人々が外国の船舶に救助されたことなども、かなり古文書に残されているようで、興味深いです。
しかし、漂着者の扱いがよろしくないと言われて殿様が謹慎というのはお気の毒です。
Posted by 風子風子  at 2013年07月14日 16:24
>風子さん

あ、そういうことを記録した古文書も多いんですね。
ジョン万次郎なんかも、その一人ですものね。

高崎藩最後の殿様・大河内輝聲は、気の毒といえば気の毒な人なんですよ。
新政府への恭順騒ぎやら五万石騒動、藩営商店の失敗からお家騒動まで、まぁ、踏んだり蹴ったりです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月14日 19:30
こまったんねー
お殿様が謹慎だんべー
郡奉行様はおれんちの方では、ごうりぶぎょうと
言うんだけど、あんまりえれー奉行様でねーから

お咎めは、ねんじゃーねのー

そんだけんど、漁師や百姓はえれーねー
花あげたり、供養をするだから
今のわけーしじゃーできなかんべー
Posted by wasada49  at 2013年07月14日 21:19
>wasada49さん

いつも上州弁全開のコメント、ありがとうございます!

地元の人たち、ほんとに偉いと思いますよ。
祟りでもあっては、ということもあるのかも知れませんが、そればかりではない「情」というものを感じます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月15日 07:39
記事中の田中玄蕃氏から、同時代の彰義隊士を弔った新門辰五郎や咸臨丸の乗組員を弔った清水次郎長、山岡鉄舟のことを思い出しました。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年07月15日 19:26
>ふれあい街歩きさん

さすが、歴史通ですね。

咸臨丸も、美加保丸と一緒に銚子沖で漂流しちゃったんですよね。
清水港で修理した後、新政府軍の船に砲撃されて、全員死亡したとか。

彰義隊といえば、たしか高崎藩を脱藩して加わってた高勝隊というのがいたと思います。

まぁ、大変な時代です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月15日 20:27
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