高渋線の「ミスター・タイヤマン」店内にある「金のなる木」に花が咲いていた。
「金のなる木」の花を見たのは初めてなので、この不景気のさなか、何かご利益がありそうで、パチリとやってきた。
「金」といえば、もうだいぶ前だが、ラジオ「小沢昭一的こころ」で、「金々節(かねかねぶし)」という歌を流していた。
♪カネだ、カネ、カネ、この世はカネだー♪という歌詞がすごくインパクトがあった。
調べてみると、明治の演歌師・添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)という人の作った、「ああ金の世や」というのが元歌らしい。
その頃の「拝金主義」の世相を痛烈に皮肉っているのだが、現在でも充分通用する内容である。
長い歌詞の一部を抜粋してみよう。
ああ金の世や金の世や。地獄の沙汰も金次第。
笑うも金よ、泣くも金。一も二も金、三も金。
親子の中を割くも金。夫婦の縁を切るも金。
強欲非道と譏(そし)ろうが、我利我利亡者(がりがりもうじゃ)と譏ろうが、
痛くも痒くもあるものか、金になりさえすればよい。
人の難儀や迷惑に、遠慮していちゃ身がたたぬ。
ああ金の世や金の世や。希望(ねがい)は聖(きよ)き労働の
我に手足はありながら、見えぬくさりに繋がれて、
朝から晩まで絶間なく、こき使われて疲れ果て
人生(ひと)の味よむ暇もない。これが自由の動物か。
ああ金の世や金の世や。牢獄(ろうや)の中のとがにんは、
食うにも着るにも眠るにも、世話も苦労もない身体。
牛や豚さえ小屋がある。月に百両の手当をば、
受ける犬さえあるものを。「サガッチャコワイ」よ神の子が、
掃溜(はきだめ)などをかきまわし、橋の袂(たもと)や軒の下、
石を枕に菰(こも)の夜具、餓えて凍えて行路病者(ゆきだおれ)。
ああ金の世や金の世や。憐れな民を救うべき、
尊き教えの田にさえも、我儘勝手の水を引く。
これも何ゆえお金ゆえ、ああ浅ましき金の世や。
長兵衛宗五郎どこにいる。大塩マルクスどこにいる。
歌詞全文を知りたい方はこちらをどうぞ。
「金のなる木」は、ポロっと落ちた葉を土に刺しておくと根がついて、また立派な「金のなる木」に成長するらしい。
まるで金が金を生む資本主義の象徴のような木にも思えるし、
困難にめげず逞しく生きる庶民の象徴のような木とも思える。
今、大量の木の葉が、冷たいコンクリートの上に放り出されようとしている。
願わくは、木の葉一枚一枚を大切に、土に刺して育てて欲しい。
いつか花咲く、「金のなる木」なのだから。