さて、前回は会津若松城が西軍の手に落ちて、乳飲み子を抱えた小栗夫人はいったいどうなるのか、というところまででした。
六月十日に出産を終えた小栗夫人は、しばらく南原の野戦病院で養生していたであろうと推測されますが、若松城陥落後どこでどうしていたかは定かでないようです。
しかし、どうやら会津の地で年を越し、翌明治二年(1869)春に江戸へ向かったことは間違いなさそうです。
早川珪村※(はやかわ・けいそん)という人が、郷土雑誌「上毛及上毛人」(上毛新聞社)に、大正十一年(1922)二月から11回にわたって連載記事「小栗上野介忠順」を執筆していますが、中島三左衛門と娘・さいから直接聞いた話を、次のように記述しています。
小栗夫人・みちと嬰児・クニ、高崎で処刑された養子・又一の許嫁・鉞(よき)、そして母堂・くに、それを護って同行した中島三左衛門とその娘・さい、塚越源忠、中沢兼五郎、総勢八名。
江戸へ向かう道中もまた艱苦に満ちたものであったことが、珪村の文から読み取れます。
ようやっとたどり着いた懐かしい江戸は東京と改名され、主君であった徳川慶喜は駿府城へ隠居、東京城と改名された江戸城の主は天皇となり、敵であった西軍の首脳が支配していました。
小栗夫人は、生家である神田明神下の建部家へ立ち寄りますが、新政府の目を恐れて受け入れてもらうことができません。
自邸であった駿河台の屋敷には、土佐藩士・土方楠左衛門久元が住んでいるという、悲しい有様でした。
余談ですが、小栗邸には日本で最初の洋館がありました。
安政二年(1855)に起きた大地震と江戸大火を経験した上野介は、安政七年(1860)遣米使節目付役としてアメリカへ渡った時、それらの災害から守るには日本の木造建築よりも西洋の石造りの建築が良いと考えたのです。
帰国してから、おそらくモデルハウスとしたかったのでしょう、石材と煉瓦を使った強固な洋館を自邸内に造ったのです。
ただ、攘夷論者からの反発を考慮してか、「洋館」とは呼ばず、「石倉」と呼んでいたそうですが。
土方久元は、その「石倉」がひどく気に入ったと見え、江戸城開城の際、小栗邸を接収して前哨本部として使用、そのまま個人の所有にしてしまいます。
ところが、夜な夜な上野介の亡霊が現れて久元を悩ますので、「官軍」と書いた護符をあちこちに貼り付け、供養を行いながら住んだというのですが、さて、どうだったんでしょう。
久元は、後に小石川に転居するのですが、「石倉」をそのまま移築したといいますから、上野介の亡霊もさぞかし唇噛んで悔しがったことでしょう。閑話休題。
さてさて、関東・東北をぐるっと回って江戸へ戻った小栗夫人ですが、いまだ安住の地に辿り着けません。
あともう少し、この話にお付き合いくださいませ。(続く)
六月十日に出産を終えた小栗夫人は、しばらく南原の野戦病院で養生していたであろうと推測されますが、若松城陥落後どこでどうしていたかは定かでないようです。
しかし、どうやら会津の地で年を越し、翌明治二年(1869)春に江戸へ向かったことは間違いなさそうです。
早川珪村※(はやかわ・けいそん)という人が、郷土雑誌「上毛及上毛人」(上毛新聞社)に、大正十一年(1922)二月から11回にわたって連載記事「小栗上野介忠順」を執筆していますが、中島三左衛門と娘・さいから直接聞いた話を、次のように記述しています。
「 | 會津藩降伏騒亂鎮定後も尚滯留し、翌明治二年早春江戸に歸らんと會津を發したるも、道路險惡なる上、寒氣も亦峻烈、而して一般の人氣殺氣を帶び、婦女子同行の爲め人夫等に不當酒代等を強請せられたる事數回なり、」 |
※ | 本名:愿次郎、嘉永六年(1853)群馬郡台新田村名主・小池又兵衛の三男として誕生、後に群馬郡与六分村の早川家へ婿入りする。明治十九年(1886)高崎驛宮元町に移り、漢学を学ぶ。後に自分の目と耳で調べた上州の歴史を、早川珪村のペンネームで発表するようになる。 昭和四年(1929)没、享年77歳。 |
小栗夫人・みちと嬰児・クニ、高崎で処刑された養子・又一の許嫁・鉞(よき)、そして母堂・くに、それを護って同行した中島三左衛門とその娘・さい、塚越源忠、中沢兼五郎、総勢八名。
江戸へ向かう道中もまた艱苦に満ちたものであったことが、珪村の文から読み取れます。
ようやっとたどり着いた懐かしい江戸は東京と改名され、主君であった徳川慶喜は駿府城へ隠居、東京城と改名された江戸城の主は天皇となり、敵であった西軍の首脳が支配していました。
小栗夫人は、生家である神田明神下の建部家へ立ち寄りますが、新政府の目を恐れて受け入れてもらうことができません。
自邸であった駿河台の屋敷には、土佐藩士・土方楠左衛門久元が住んでいるという、悲しい有様でした。
余談ですが、小栗邸には日本で最初の洋館がありました。
安政二年(1855)に起きた大地震と江戸大火を経験した上野介は、安政七年(1860)遣米使節目付役としてアメリカへ渡った時、それらの災害から守るには日本の木造建築よりも西洋の石造りの建築が良いと考えたのです。
帰国してから、おそらくモデルハウスとしたかったのでしょう、石材と煉瓦を使った強固な洋館を自邸内に造ったのです。
ただ、攘夷論者からの反発を考慮してか、「洋館」とは呼ばず、「石倉」と呼んでいたそうですが。
土方久元は、その「石倉」がひどく気に入ったと見え、江戸城開城の際、小栗邸を接収して前哨本部として使用、そのまま個人の所有にしてしまいます。
ところが、夜な夜な上野介の亡霊が現れて久元を悩ますので、「官軍」と書いた護符をあちこちに貼り付け、供養を行いながら住んだというのですが、さて、どうだったんでしょう。
久元は、後に小石川に転居するのですが、「石倉」をそのまま移築したといいますから、上野介の亡霊もさぞかし唇噛んで悔しがったことでしょう。閑話休題。
さてさて、関東・東北をぐるっと回って江戸へ戻った小栗夫人ですが、いまだ安住の地に辿り着けません。
あともう少し、この話にお付き合いくださいませ。(続く)