2013年03月31日

八重の桜と小栗の椿(8)

大河ドラマのひと足先を進む、「八重の桜と小栗の椿」です。

横山主税が慶応四年(1868)五月朔日の白河の激戦で戦死してしまったことにより、そこに身を寄せていた小栗夫人一行は、西郷頼母の計らいによって、南原野戦病院へ入ったといいます。
(小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」)

南原は、会津若松城から南へ10kmほどの所で、直接の戦場にはならなかったようです。

小板橋氏によると、小栗夫人が野戦病院へ入ったのは五月下旬であったろうということです。

まさに産み月となっていた小栗夫人は、六月十日この野戦病院で無事出産の日を迎えます。
女児でありましたが、まぎれもなく小栗上野介の血を受け継ぐ、ただ一人の実子誕生でありました。
その子は、母堂・くにの名をそのままもらい、クニと名付けられました。(あるいは国子とも)

乳飲み子を抱え、産後の養生も必要な小栗夫人は、戦火が迫るのを感じながらも、どこへ逃れることもなりません。
次々と運び込まれる負傷者を見ながら、この野戦病院で不安な日々を送ったのでありましょう。
その間、夫人護衛隊長の中島三左衛門と数人を残して、小栗歩兵達は再び会津の諸隊に加わって戦いに参加します。

列藩同盟軍は、相次ぐ白河城奪還の失敗、二本松城の陥落など西軍にじわじわと押され続け、八月二十一日に母成峠の戦いに敗れると、ついに西軍の若松城下進攻を許してしまいます。
白虎隊の少年74名が城内に招集されたのは、その翌日のことでした。
そして二十三日、籠城を指令する鐘の音が城下に鳴り響きます。
山本八重がスペンサー銃を携えて城内に入ったのは、まさにこの時です。

小栗歩兵達が加わった諸隊は会津各地で西軍と戦っていましたが、命を落とす者も出ました。
塚越冨五郎(23歳) 西海枝(さいかち)村一竿にて
佐藤銀十郎(21歳) 熊倉村にて

会津若松城は、ひと月もの間よく耐えましたが、九月十四日の総攻撃を受けて遂に堪らず、二十二日追手門先に白旗が立てられ、開城することとなります。

さてこの後、小栗夫人一行と小栗歩兵はどうなっていくのでしょうか。(続く)







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