2013年03月10日

八重の桜と小栗の椿(6)

越後中条村に宿泊していた小栗夫人一行は、閏四月二十日、堀之内村へ向かいます。

ここには、和光原で分かれ渋峠越えのルートをとった母堂一行が宿泊していたからです。
実に十二日ぶりの再会を果たした訳ですが、身辺に迫る危機を察知した一行は、二十三日には堀之内村を発ち新潟へ向かいます。

尾張藩兵を主力とする西軍別動隊が堀之内村に進撃してきたのは、その翌日、二十四日のことでした。
まさに危機一髪。

辛くも堀之内村を脱出した小栗夫人一行は、二十四日新潟に入り、小栗上野介忠順の父で、母堂・くににとっては夫である小栗忠高の墓参をしています。
安政元年(1854)新潟奉行を命じられた小栗忠高は、単身で赴任したその翌年に病没、松樹山法音寺に埋葬されていました。
忠高が江戸を発ってから十六年目にして、初めて墓参が叶った母堂は、亡き夫とどのような言葉を交わしたのでしょうか。

一方、二十四日に般若塚での戦いに敗れ、小出島に戻った町野隊小栗歩兵は、小千谷陣屋から井深宅右衛門山内大学の援軍を得て、二百余名の勢力で西軍の襲来に備えていました。

その西軍、長州藩・山形有朋と薩摩藩・黒田清隆を参謀とする、北陸道鎮撫総督軍の主力は海道軍として柏崎へ、土佐藩・岩村精一郎率いる山道軍は、二十四日に堀之内村を、二十六日には小千谷六日町を占領します。

三国峠から会津町野隊を追ってきた東山道鎮撫総督軍原・豊永勢も、二十七日に六日町に入りますが、既に岩村隊が来ていたため、ここで上州諸藩とともに沼田城下へ戻りました。

さて、六日町方面から展開してきた山道軍七百余名は、小出島から二里上流の浦佐に本陣を置き、堀之内村の別動隊とともに小出島を睨んでいました。

そして二十七日未明、ついに西軍の小出島攻撃が開始されます。

「小出町歴史資料集」に掲載されている「太政官日誌」に、その戦闘の模様が記されています。
二十七日、大イニ雨フル、官軍小出嶋ヲ攻撃ス、小出嶋ノ賊ハ会津其他ノ精鋭ニシテ、其数多カラズト雖(いえど)も頗(すこぶる)屈強ナリ、
敵、駅(宿)ノ河岸南西ニ巨材ヲ並列セルアリ、恰(あたか)モ好堅塁タリ、
賊兵ニ拠リテ劇シク発砲ス、時ニ薩・長一部ノ兵ハ、魚野川ノ上流ヲ渡リテ進ム、賊ノ斥候ニ逢フテ之ヲ遂斥シ、直チニ小出嶋ニ向フ、然レドモ、佐梨川前ニ横ハリ容易ク侵入スルコトヲ得ズ、
賊兵砲丸ヲ発スコト雨ノ如シ、薩・長ノ兵算ヲ乱シテ倒ル、其状極メテ惨ナリ、
之ヨリ先官軍壮士数人ヲ遣ハシ、佐梨川ノ上流ヨリ駅ノ東ニ至リ、火ヲ人家ニ放タシム、炎エン天ニ漲ル、堀之内ヨリ進ミタル奇兵ハ、初メ、河ヲ隔テ砲戦セシガ、賊兵小出嶋ノ急ナルヲ顧ミ、遂ニ民舎ニ火シテ逃ル、乃チ河ヲ渡リ四日町村ニ至ル、
此ノ時、薩・長ノ兵ハ既ニ小出嶋ノ駅中ニ突入ス、賊兵抗戦シ、白刃相接シ、叫呼奮戦ス、忽チニシテ、鮮血潦々河ヲ為シ、死屍累々山ヲ為ス」

会津軍は少数ながらよく善戦しましたが、如何せん圧倒的な西軍との兵力の前に撤退を余儀なくされました。
この戦いで、会津軍十四名、西軍十六名が戦死しましたが、小栗歩兵はみな無事で、町野隊とともに六十里峠を越えて会津に退きます。

その前日、小栗夫人一行もまた、最終目的地・会津に向けて新潟を出発していました。

さあ、いよいよ、舞台は会津の地に転じます。
そこで、小栗夫人一行を待っていたのは・・・。(続く)





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