2013年02月10日

八重の桜と小栗の椿(2)

小栗上野介と別れて会津を目指した夫人一行の、苦難の逃避行が始まります。

亀沢大井家に避難していた夫人達は、四日夜半、護衛隊とともに闇夜の山道を吾妻境に近い大反(おおそり)に移動します。

西軍の探索の手が伸びる中、萩生村の名主・一場善太郎が命懸けで握り飯を届け、夫人一行は六日まで藪の中に身を潜めていました。

ところが、たまたま付近の民家を探索に来ていた吉井藩士・小林省吾に、発見されてしまいます。
しかし、ここに心温まる秘話があったのです。

そのことが、大正十二年(1923)刊行の「碓氷郡志」に記されています。
小林省吾
教育功勞者を以て其の名聲夙に聞ゆ。吉井藩士にして弘化元年十二月三日大字矢田に生る。廢藩後專力を普通教育の普及に致し、明治三十四年藍綬褒章を下賜せられたが、やがて肺患を得、明治三十七年五月二十三日遠逝す。
教育家として小林省吾の名は夙に知られたれども、血あり涙ある武士としての逸話は未だ之を知るもの少なし。
慶應四年海内騒擾を極め殺気充満せるの時、藩主の命を奉じ小栗上野介を権田村に討ち勇往邁進遂に上野介主従四名を捕縛するに至りしが、曾(かつて)其妻女の妊娠中なるを見て之を斬るに忍びず、草刈籠の中に潜ましめ、竊(ひそか)に人を附し若干の路銀を與(あた)へ、之を會津藩家老横山主税の許に落延びせしめたといふは、實に小林省吾の尋常一様の武士にあらざりしことが思はれる。」

このことは、長い間明かされることがなかったようですが、ある偶然から世に知られることとなりました。
昭和五十二年(1977)発行の「群馬県多野郡誌」には、このような追記がされています。
小林省吾の慈悲により一命を助けられた事實は、上野介一味残黨の外知るものなく、當事者たる小林省吾は敢て恩を沽(う)らず、遂にかゝる事實もあらはれざりしが、明治二十七年に至り多胡村向井周彌翁の中國漫遊に際し、廣島より宮島に至る船中において、はしなくも上野介の近臣某に邂逅し事の顛末を聞くに及び、初めて此の事實を知りたりといふ。
其の近臣某は其の當時、京都府屬で勳七等池田彰信といふ人であった。(向井周彌翁直話)」
小栗夫人護衛隊のひとり池田伝三郎のこと。後に京都で警察官となった。

このことがあってから、多数での行動は目立つとして、須賀尾から先は二手に分かれて進むことにします。

草刈籠の中で息苦しい思いをしていた小栗夫人は、ここからやっと山駕籠に乗り換えることができ、長野原から生須、花敷を経て和光原を目指します。

一方、小栗母堂鉞子は、万騎峠→応桑→洞口→小雨→和光原というルートを取ります。

苦難の末に和光原で落ち合った一行ですが、ここから再び二手に分かれ、次に落ち合う先は越後堀ノ内村とします。
母堂一行は、善光寺参りに扮して草津温泉から渋峠を越えて越後を目指します。
夫人一行は、野反池(野反湖)から秘境・秋山郷を経て越後を目指します。

今、野反湖へ行く途中の道端に「小栗清水」という看板が立っていますが、夫人達はここで渇いた喉を潤したということです。

この後、越後へ向かう夫人一行に、運命ともいうべき出来事がやってきます。(続く)

「小栗上野介一族の悲劇」は著者・小板橋良平氏が、小栗夫人一行の辿った道を大変なご苦労をされて実地踏査されたものです。
本ブログ記事は、そのご苦労に感謝しつつ、氏の著作を参考にさせていただきました。)





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この記事へのコメント
気になるキーワードがいくつもありました。
「小雨」という淋しげな地名は、野反湖に出かける度に通るので気になっていました。
小栗一族が逃避行で通った道だったのですね。

小板橋良平氏は松井田出身で「九十九史考」などの立派な著作を遺された方。尊敬する郷土の先輩です。
Posted by 風子風子  at 2013年02月10日 20:02
>風子さん

小板橋氏の研究調査には、本当に頭が下がります。
今は廃道に近い危険な道や、登山に慣れた人でもきつい道を、自ら歩いて調査してるんですからね。

また、その道を身重の小栗夫人が辿ったのかと思うと、敵軍という存在は何と恐ろしいものかということも考えさせられます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年02月11日 08:25
明治二十七年に向井周彌翁が
中國漫遊した折りでの邂逅、
何とも凄いです。
向井周彌翁についても
小林省吾氏の背景(吉井藩と幕府との関係)
についても
更に詳しく知りたいですね。
Posted by いちじん  at 2013年02月13日 02:09
>いちじんさん

今は一つの市となった倉渕・吉井・高崎も、小栗上野介を巡っては複雑な関係だった訳ですね。

上野介の捕縛・斬首に加担したとはいえ、高崎藩も吉井藩も上野介に謀反の意がないことを知っていたからこそ、小林省吾氏の温情も生まれたのでしょう。

小栗上野介については、高崎全体でもっともっと顕彰活動を高めるべきだと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年02月13日 18:04
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