2012年04月08日

続・鎌倉街道探訪記(18)

奥州へ向かう途中の源義家が花見をしたので、「花見堂」と呼ばれるようになったという豊岡「閻魔堂」
「藤花公民館」の館長さんに教わって、その場所が分かりました。

「藤花公民館」のすぐ隣に、「藤花庵」というお蕎麦屋さんがあります。

そこが高崎環状線との交差点ですが、向こう角には「花見屋」という屋号のお酒屋さんがあります。

こういう、土地の名前を入れた屋号って、私は好きですねー。

おっと・・・、閻魔堂、閻魔堂。

「閻魔堂」は、この交差点の南西側にあったそうです。

現在は取り壊されて民家が建っていますが、「高崎の散歩道 第十集」が発行された昭和五十四年(1979)にはまだあったようで、こんな記述があります。
今はトタンで覆ってしまったが、元は草ぶきの屋根の花見堂が見える。
この堂は閻魔堂で花見地区の葬式や供養の堂であり、ここで告別式を行い各家の墓地へと行列していった。」


環状線を渡って「閻魔堂」があったという辺りへ行ってみると、なるほどそれらしき石仏や、石堂があったりします。

「閻魔堂」には、明治から昭和にかけて、「鉄つぁん」と呼ばれた人が住み付いていたという話があります。       (大正からという説もある。)

この「鉄つぁん」こそ、「藤花公民館」にある白狐の作者・葦名鉄十郎盛幸です。
葦名鉄十郎加賀藩士であったと言われています。
その加賀藩士が、どのような理由で上州豊岡村「閻魔堂」に住み付くことになったのか、その経緯は人々の口伝により異なっていますが、「豊岡誌」には次のように記述されています。

日本は幕末から明治にかけての近代化大改革の中で、武士階級は消滅した。(略)
若い鉄十郎は浪人者となって生きる前途を失った。腕に特技をつけて生きる力を創造しようと決意した鉄十郎は、会津の漆塗り職人の技を取得しようと奮起した。(略)
鉄十郎が漆塗師の修行に幾年月を費やしたかは定かではないが、故郷への帰途の旅を半ばにして、疲れと飢えが重なった身体は、難儀の旅人となっていた。
上州豊岡村字下藤塚には江戸から28番目の一里塚がある。
葦名鉄十郎盛幸は、一里塚まで辿り着いた時、この地で行き倒れの身となった。(略)
鉄十郎は農家の納屋で介抱を受け、病む身の回復を待って、中豊岡中宿の空き部屋に移って、豊岡の人情に感謝しつつ仮の宿とした。
ところが、すっかり元気を取り戻した鉄十郎は、事もあろうに藤花住民に対し、「豊岡が好きになった。この地に留まって暮らしたい。厄介になりたい。」と言い出して懇願した。(略)
「宿賃無しで住めるところはないものか。」(略)「閻魔堂の西端に床を上げれば、一人暮らしの住まいになろう。」という結論に達した藤花の男衆は、早速自前の山から栗の木を切りだしてきて、ねた棒を作り、床板を持ち寄って床を上げた。葦名鉄十郎の住処が出来上がったのである。」

「閻魔堂」に住み付いた葦名鉄十郎は、地域の人から「鉄つぁん」と呼ばれて親しまれ、竹を編んで作った笯(ど)を近くの堀に仕掛け、毎朝、捕った鰻を柳川町へ売りに行って、生計を立てていたそうです。
そして、生計の足しにと始めたのが、達磨の木型彫りでした。

持ち前の器用さを認められ、達磨製造業者に求められて始めた型彫りでしたが、当時は型彫り職人も少なかったので、いつしか「達磨の型彫り鉄つぁん」として、豊岡になくてはならない人となりました。
「鉄つぁん」は、決して法外な値段を取らず、誤魔化したり、諂(へつら)ったりすることのない堅物だったそうです。

そのためか、「鉄つぁん」の生活は極貧のままで、米びつはいつも底が見える状態だったとか。
しかしそんな中でも、米を詰めた小さな袋と、新しい草鞋はいつも用意しておき、いざ鎌倉に備えていたとも言います。
また、豊岡小学校建設の際には、50銭の寄付までしていました。

「鉄つぁん」が、「閻魔堂」で息を引き取ったのは昭和十二年(1937)、享年75歳でした。

先に亡くした妻・ヤスと共に、常安寺の墓地に眠っています。

子どもがなかった「鉄つぁん」の墓は、高崎市木村保二郎という人が建てていますが、今では数人の達磨愛好家以外、ほとんど詣でる人もないそうです。

常安寺の祖詠弘昭大和尚は、「ぜひ、葦名さんのことを世に出してやって下さい。供養になりますから。」と仰っていました。

「鉄つぁん」が終の棲家(ついのすみか)としていた「閻魔堂」は、「藤花公民館」の建設費用捻出のため土地共々売却され、取り壊されました。
今、「藤花公民館」にある二十二夜塔や六十六部供養塔、そして何体かの石仏は、その時、「閻魔堂」から移設されたものです。

ご本尊の「閻魔大王」は、本寺の常安寺に移され、綺麗にお化粧直しをされて本堂に安置され、炯炯たる眼光を放っています。

少林山達磨寺には、「鉄つぁん」が彫り上げた達磨大師像が献納されています。       ↓






酒の好きな「鉄つぁん」が酒を断って、一年の歳月を費やして一心不乱に彫り上げたものだそうです。

長い記事になってしまいましたが、地名の「花見」には、面白い伝説やドラマが隠れていました。
史跡の看板を整備して、土地の宝として伝え残していって欲しいものだと思います。

(参考図書:「豊岡誌」「高崎の散歩道」「縁起だるま 高崎だるまとその商圏」)


【「花見堂」(閻魔堂)があった所】






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この記事へのコメント
偶然、加賀藩士の幕末維新に関する本を読んだ後でしたので、今回も大変興味深く読ませていただきました。
村にたどり着いた困窮者を助けたというお話は他でも読んだことがありますが、知られざるドラマがあるのですねー。
この辺りは車で通過することが多いのですが、実際に歩かないと駄目ですね。今度、出掛けてみます^^。
Posted by 風子風子  at 2012年04月10日 15:40
>風子さん

街道筋に住んでいた人は、行き倒れになった旅人の供養まで、きちんとするのが習わしだったようですね。
そのDNAは、今の人々の中にも残っているような気はしますが。

今ちょうど、「続・鎌倉街道探訪記」で歩いた道は、桜が見頃になってると思います。
私も、歩きたいなと思ってるんですが(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年04月10日 20:28
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