2012年01月21日

続・鎌倉街道探訪記(7)

常盤町(ときわちょう)交差点の角に、「旧中山道」の看板が立っています。

鎌倉街道はここで旧中山道と合流します。
というより、旧中山道がここから鎌倉街道を利用した、という方が正しいのでしょう。

ここは中山道高崎宿「京口」ということで、の方から来る旅人は、今の「君が代橋」のちょっと下流辺りで烏川を渡って、写真向こう側からこの角を左へ曲がり、赤坂を上って、高崎城下へ入って来るわけです。

もともと井伊直政高崎城を築いた目的は、中山道を通って江戸へ攻め上ろうという外敵を、食い止めるためでした。
そのため、この「京口」高崎宿「上の木戸」として、特に厳重な備えになっています。

常盤町の角には「外木戸」赤坂の途中には「内木戸」と、木戸が二つもありました。

各木戸の番小屋には武士が常時詰めていて、六尺棒を持って立っていたといいます。

そして「内木戸」の近くには、中山道を挟んで「長松寺」「恵徳寺」が、高台から見下ろすように配置されています。
いざという時は、境内に兵士を配して迎え撃つために、ここに寺を移設したのだそうです。

明治になって木戸は廃止されましたが、「外木戸」があったところには「常盤町交番」が設置されました。

薄ぼんやりと記憶に残っている「常盤町交番」は、小さな、文字通り「ポリスボックス」という感じで、昭和四十年(1965)頃まであったのではないかと思います。

さて、「旧中山道」は、常盤町の角を曲がるルートが一般的に知られていますが、間部 詮房(まなべ あきふさ)が高崎藩主だった宝永七年(1710)~享保二年(1717)の頃は、赤坂から真っ直ぐ烏川の渡船場へ向かっていたようなのです。

古の鎌倉街道も、おそらく、ここで烏川を渡るというルートだったのでしょう。

烏川の岸には美しい松並木の台地が続き、「台が松」という名勝地になっていたそうです。

そもそも、高崎「松」とは歴史的にも深い関係があります。

井伊直政が、それまでの「和田」という地名を、当初「松ケ崎」にしようと思ったのは、城内にあった名木「露の松」に由るものだといいますし、
「常盤町」という町名も、常緑の「松」「常盤(永久に変わらぬこと)に因んで名付けたといわれます。
高崎で最も歴史のある「中央小学校」の旧校歌にも、「松のときわの 色深く」と謳われています。
だいいち、市役所の所在地が「高松町」じゃありませんか。
歴代市長最長在任記録保持者だって・・・・・ま、いいや。

それなのに、「市の木」「松」ではなく、「ケヤキ」「カシ」だとは・・・。

気を取り直して、間部時代のように真っ直ぐ烏川に向かうと、「常盤橋」という小さな橋があります。

そのすぐ先は、現代の中山道・国道17号で、ひっきりなしに車が走っています。

「常盤橋」の下の水路が、並榎町の名主・清水吉兵衛が開いたとされる「吉兵衛堀」です。

この堀には「吉兵衛車」とか「田村車」とかいう水車があったとか、増水により子供がたびたび流されて命を落すので「人取り川」と呼ばれたとかいう話がありますが、現在は、写真のように堀の底の細い溝に、わずかな水が流れているだけです。

清水吉兵衛については、グンブロガー・捨蚕さんがいろいろ調査して下さっていますので、そちらをご覧ください。
   ◇ぶら捨蚕 「吉兵衛さん」

昔は、「常盤橋」から国道に上がって右へ100mほど行くと、「八千代橋」という木橋が架かっていて、乗附側に渡ることができました。

烏川碓氷川の二つの川を越える橋なので、全長500m以上と県下最長の木橋で、時代劇の撮影にも使われた、趣きのある橋でした。

それよりもっと前には、「千代橋」「八千代橋」という、二つの土橋が架かっていたそうです。

その頃の高崎の橋は、実に粋な名前が付いていたもので、北から、「君が代」「千代」「八千代」「聖石」と、明らかに国歌を意識して付けた名前だと分かります。

ただ、土橋の「千代・八千代橋」は増水でたびたび流されてしまうので、昭和十六年(1941)に架け替えられて一本の木橋「八千代橋」となり、「千代橋」の名前は消えてしまいました。

ところが、この「八千代橋」も、台風が来るたびによく流されていました。

昭和四十二年(1967)に和田橋(上の地図では「高崎大橋」という名で計画されていたんですね。)が開通すると、木橋の「八千代橋」は撤去されてしまいます。
そして昭和六十二年(1987)、碓氷川にだけ鋼鉄製の橋が架かり、半分だけの「八千代橋」になってしまいました。
本当は、「千代橋」の名を復活すべきだったんでしょうね。

さて、長くなりましたので、今日はここまでと致しましょう。

(参考図書:「続・高崎漫歩」「新編高崎市史」)


【「内木戸」があった所】

【「外木戸」があった所】

【常盤橋】

【旧「八千代橋」が架かっていた所】






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この記事へのコメント
八千代橋懐かしいです。

ところで
外木戸と内木戸の位置が
はっきり分かりました。
そこで
当時の木戸はどのような
建物だったのか興味があります。
門、扉、屋根等がどのようになっていたのか
絵図があれば見たいと
以前から思っていました。
参考資料がありましたら
教えてください。
Posted by いちじん  at 2012年01月22日 18:02
内木戸、外木戸というと、何やら時代小説を
読んでいるようで…六尺棒を持った木戸番が
立っていた時代にタイムスリップです^^。

以前から、橋の名前は気になっていましたが、
国歌に因んでいたとは知りませんでした。
Posted by 風子風子  at 2012年01月22日 19:19
>いちじんさん

八千代橋が懐かしい年代ですよね、お互い。
七夕後の竹を、わざわざ八千代橋まで担いで行って、橋の上から川に投げ込んだ記憶があります。
あれ、どうだったんだろう?

木戸の絵図ですかー。
ありそうなもんですがねー。
心がけておきます(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年01月22日 22:22
>風子さん

赤坂から常盤町にかけての町並みは、今でもけっこう雰囲気があって、私は好きです。

橋の名前、面白いでしょう?
私も「千代橋」というのがあったということを知って、やっと納得できたんですけどね。
無くなってしまったのは、本当に残念です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年01月22日 22:52
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