2012年01月07日

続・鎌倉街道探訪記(5)

高崎城「子の門」のあったところです。

一世代前の人は、「北門」と言ってました。
歩兵第15連隊があった頃の「北門」なんですが、とうの昔に取り払われているのに、そう呼んでいました。


「子の門」から西の堀はきれいに整備されて、平成五年(1993)に「手づくり郷土賞」を受賞しています。→






←なかなか、いい雰囲気でしょう。
(2011/12/9撮影)
私が子どもの頃は、水のあまりない、北側のうす暗い堀でした。
その分、冬は厚い氷が張って、スケートの真似事をして遊んでいたものです。

左手に回り込んで、右へ下りればせせらぎ沿いの遊歩道へ(お奨めです)、左へ上がれば土塁上の遊歩道です。

今日は、土塁の上に上がります。




ぼんやりしてると根っこに躓き、堀まで転げ落ちますので、注意しながら進みましょう。







北西の角を曲がると、急に土塁の幅が広くなります。
この辺に、高崎城「赤坂門」があり、右前方・北西部には「馬出し」という、城郭の一部が張り出していたはずです。

左の写真は昭和二十三年(1948)に米軍が撮影した航空写真から、高崎城址部分を切り出し、拡大したものですが、円内が「馬出し」跡です。

木が2本立っているだけの「馬出し」跡を、住民は「坊主山」と呼び親しんでいました。

「坊主山」がいつごろ削り取られたのかは定かでありませんが、昭和二十八年(1953)の地図には、すでに「坊主山」は見えません。

代わりに、坊主山市営住宅」という名前が見えますが、今ではその呼び名すら消えてしまいました。


でも、「坊主山」の痕跡がまったく無くなってしまった訳でもありません。

左の地図で、「高松町」の一部が、「常磐町(ときわちょう)」の方にツンと突き出しているのが分かるでしょうか。
この突き出ている位置と方向、形が、「馬出し」そっくりじゃありませんか。

因みに、この「高松町」という町、江戸時代に書かれた「高崎寿奈子」「高崎志」には出てない、比較的新しくできた町です。

明治十五年(1882)に土屋老平(おいひら)が著した「更生高崎旧事記(くじき)」には、こんな風に書かれています。

老平云、高松町ハ旧城丸ノ内也。高松ノ名称ハ、松ハ延齢ノ木ニテ疆(きょう:限り)ナキヲ祝ヒ、以テ松ノ名ニ高ヲ冠ラシムハ高ハ大イナル意ニアレバ也。・・・(町になったのは)明治四年(1871)六月也。・・・今ハ此地陸軍所轄地、・・・」

ということで、「坊主山」高松町分であったために、地図に痕跡が残ったという訳です。

また、こんなところにも痕跡が残っていることを、住民の方に教えて頂きました。

「陸軍所轄」の標柱
「坊主山」の標記がある電信柱

話しは変わりますが、以前、前橋の方からこう言われたことがあります。
「高崎は羨ましい。城の堀がしっかり残っているんだから。」

そうです、城の建物こそなくなってしまいましたが、残った土塁やお堀のおかげで、城域の形がはっきり分かります。
これは、高崎の大きな財産だと思います。
もっと、もっと、自慢してよい宝物だと思います。
史跡看板をたくさん立てて、まずは市民に知ってもらうべきでしょう。


【「子の門」があった所】

【「坊主山」があった所】

【「陸軍所轄」の標柱】





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