2011年12月17日

続・鎌倉街道探訪記(2)

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、「和田宿古繪圖」というのが添付されています。

これを、もう少し簡略化したのがこちらです。↓


明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に添付されていたものですが、図中に「鎌倉道」という文字が見えます。

「高崎市史」には、次のような記述があります。
抑々(そもそも)本市ハ今ヨリ六百八十餘年前、和田義盛ノ六子義信、白川郷二墊居シ、其子正信、寛元年中此ノ地ニ移リ住シ和田ト稱ス、當時既ニ鎌倉街道ノ一驛トシテ稍々(やや)市街ノ形ヲナシタルモノノ如シ・・・」
鎌倉開府以來、鎌倉街道タリシ時ハ、金井宿、馬上宿、植横宿ノ名アリ、和田氏ニ至リ和田宿ノ名起リ、市街ヲ形成セリ、當時ノ通路トシテハ、後世ノ赤坂門ヲ置カレシ所ヨリ、現今ノ榮内烏川ニ沿ヒ、公園地内ヲ通過シ、小万坂ニ出シト云フ、・・・」

図中の「馬上宿」(ばじょうじゅく・うまあげじゅく・ばあげじゅく)から「金井宿」となっている道は、現在のどの辺なのでしょうか。

宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子(すなご)」には、このような記述があります。
・・・馬上宿(今城ノ二ノ丸南中門ノ内ナリ)、金井宿(今城ノ二ノ丸赤坂中門ノ内ナリ)・・・」

この記述からすると、左図の赤いラインということになり、現在の高崎総合医療センター(旧・国立高崎病院)辺りから、市立高松中学校にかけて鎌倉街道が通っていたようです。

現在は大きな建物が建ち並んでいますので、古の道を歩くことはできません。

止むを得ず、市庁舎前を右に行って「シンフォニーロード」を北へ進むことに致します。

「シンフォニーロード」高崎駅西口から音楽センター脇まで突き抜けたのは、平成六年(1994)のことです。

それまでは、高崎駅西口前の道は、「信濃屋旅館」「新(あら)町交番」で突き当たって、中山道との丁字路になっていました。

左の写真は昭和六十年(1985)撮影の航空写真ですが、「シンフォニーロード」(黄色の破線)ができる前の様子が分かります。

今の市庁舎がある所には「市立第三中学校」シティギャラリーのある所にはわが母校「市立第二中学校」がありました。

信号の角の植え込みに、こんなのが建っていました。→

「高崎経済大学 開学の地」などと刻んであります。

因みに、高崎経済大学の学章のデザインは、高崎藩主・大河内氏の家紋「高崎扇」が元になっています。

←この写真を見て、「懐かしい!」と思うご年配もいることでしょう。

現在のスズランデパート前から、音楽センター方向を見ています。

左端の石垣とその上の「飛龍の松」が、今も同じ場所にありますので、見当がつくでしょうか。

取り壊し中の木造建屋は、もともと陸軍歩兵第十五連隊(後・東部38部隊)の兵舎でした。
終戦後、この兵舎は様々な施設として利用されました。
真っ先に利用したのは進駐軍です。
200人の米兵が駐留し、10万坪の連隊跡地を管理下に置きました。
戦地からの引揚者の住宅としても使用されました。

その兵舎を使って昭和二十七年(1952)に開校したのが、「高崎経済大学」の前身となる「高崎市立短期大学」でした。
でも、ここで開学したのは高崎経済大学だけじゃありません。
昭和二十二年(1947)には、群馬大学の前身である「群馬青年師範学校」も置かれました。
そして、「高崎市立第二中学校」「東京農大二高」も、みなこの兵舎から始まったのです。
石碑には、それらのことも刻んで欲しかったと思います。

おやおや、ほとんど歩かない内に、こんなに長くなってしまいました。
続きは、次回に致しましょう。

【「高崎経済大学 開学の地」碑】





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この記事へのコメント
佐野中学校五十年史によると
昭和22年に
新制中学校が制定されたが
校舎が無く
22年度の2学期から
旧三十八部隊の兵舎を
校舎として使い始め、
校舎が完成した昭和24年の7月まで
利用していたと
あります。
また、片岡、南の中学校も
同じようにこの兵舎を
校舎として一時
使っていたとあります。

よろしくお願いします。
Posted by いちじん  at 2011年12月20日 10:16
>いちじんさん

あ、そうでしたかー!
それは知りませんでした。
確かに、終戦直後に校舎として使える建物としたら、あそこしかなかったでしょうね。

でも、冬は寒い校舎でした。
南北に長いので、南からの陽が入らないんですよね。
明治の最初に建てた東京鎮台の兵舎は、ちゃんと東西に長い建物だったんですけどねー。
何か考えがあったんでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年12月20日 20:39
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