2011年10月29日

風船爆弾と高崎高等女学校(1)

2010年08月30日の記事「高崎が沈んだ日」の私のコメント、
「軍需工場といえば、当時の県女では風船爆弾を作っていたらしいですね。 やっぱり空襲で誘爆を起こしたと聞きます。」
に、シュワちゃんさんからこんなコメントを頂きました。

突然で失礼します。高女がその工場だったのですか? 風船爆弾は、日本火薬(岩鼻町)で、市内の高等女学校全てが参加していたようです。
県女と市女に在学中であった母と親戚が私に言っていました。 当時は徒歩で、今の群馬の森と日本火薬のところだと。
当時はパイロットの「パラシュート」の製作と言われて勤労奉仕をさせられていたとも言っていました。 女子挺身隊 というやつでしょうか。敬礼の仕方もそこで教えられたとも言っていました。
母達には疑う余地はなくパラシュートと信じて取り掛かっていたと言います。 それは、空気の入る部分のみの製作で爆弾本体は、見たこともない。だからパラシュートの説明で納得させられたと。
ウィキペディアの現在の県立前橋女子高校には風船爆弾を作っていたという記述がありますから、県女・市女で製作していた?ということもあるのか。
私は、実際資料等で確かめた訳ではなく、母の記憶が100%確かであるとは思えません。しかし、歩いて行ったと言っていましたから、行ったことは事実だと思います。県女・市女の体育館等の広いところで、残りの生徒?が製作していたのかも知れません。 しかし、母も親戚の方も全員で行ったと語っていましたが、、、」

少し前の記事だったので、高女風船爆弾を作っていたという話をどこで見たのか記憶が定かでなく、確認をしてご返事することにさせて頂きました。

で、調べた結果、「新編・高崎市史 通史編4」に、次のような記述がありましたので、ここでご報告させて頂きます。

二回目の空襲は、(略)八月五日午後九時四十分から六日午前零時八分の間、第一目標である前橋市に、(略)
その時、高崎も日高町付近、塚沢国民学校(塚沢小)付近、末広町の青果市場、県立高崎高等女学校や北国民学校(北小)辺の請地町、成田町、高崎商業学校付近の台町から住吉町辺、上並榎町などが爆撃された。
当時、女生徒が学校工場で風船爆弾を製造していた高等女学校では、岩鼻火薬製造所から運ばれていた火薬が誘爆を起こした。
現在、市立図書館になっている同校跡には、こぶ状の痕跡を残す楠の木が残っている。」


また、シュワちゃんさんのお母様とご親戚の方がお話しされていたという、岩鼻火薬所への勤労奉仕も確かにあったようです。
「高崎市教育史 下巻」「戦時教育 勤労動員等」の項には、次のような記述がありました。

同校(県立高崎高等女学校)の勤労動員はこのほかにも行われており、十八年(1943)には岩鼻火薬工場をはじめ、学年別に(略)農村への出動がなされた...
十九年には範囲の拡大もあって、工場として榛名航空高崎工場、倉賀野須賀工場、日清製粉高崎工場、(略)堤ヶ岡の飛行場造りもこれに加わった。
これら勤労動員と並行して十九年になると学校工場の開設が相次ぎ、同校もその波の中に入った。
校舎内施設として、講堂、雨天体操場、東館一教室、旧校舎前に急増されたバラック四教室が利用され、三、四年生が主力となって風船爆弾の製造や薬包作業に従事した。


シュワちゃんさんのおかげで、うろ覚えだったことを改めて調べることができました。
ありがとうございました。

また、「風船爆弾」にも俄かに興味が湧いてきて、調べてみたら、これもまた面白いことが分かってきました。
そのお話しは、また次回ということに。





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この記事へのコメント
ウチの母(昭和五年生まれ・岩鼻小学校卒)も
火薬所で風船爆弾作るのを手伝った、と聞いています。
小さく切った羽二重を袋に縫ったものを作ったそうです。
火薬を入れると袋だと聞いていたそうです。
Posted by 紫文  at 2011年10月31日 21:51
>紫文師匠

そうでしたかー。
お母さんが14、5歳の時ですね。


風船貼りをする人は、指紋が無くなってしまったと聞きます。
一日中、縫物を続ける作業も、さぞかし大変だったことでしょう。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年11月01日 07:57
風船爆弾のことを少し調べてみました。
女学生が作った最終兵器ということで、原爆を投下したエノラ・ゲイが展示されているアメリカ、スミミソニアン博物館の片隅に置かれているそうですが、風船爆弾で現地の人が6人亡くなったとか・・・なんともやりきれない思いに捕われます。
Posted by 風子風子  at 2011年11月02日 09:33
>風子さん

そうなんですね。
それも、風船爆弾というものを知らずに触った、ピクニック中の女性1人と子供5人といいますからね。

もう繰り返したくない歴史です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年11月02日 22:05
ごめんなさい。「スミソニアン博物館

「炭味噌・・」になってしまいました。m(--)m
Posted by 風子風子  at 2011年11月04日 08:41
>風子さん

「炭味噌・・」は面白い!
何か、新しい調味料のようで。

そう言われると、「スミソニアン」も「酢味噌煮餡」?
なんか、まんじゅうの種になりそう(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年11月04日 19:57
暫くアクセスしていませんでした。
失礼しました。
「高崎市教育史」は詳しそうなので拝見したいです。
どなたかが記されていましたが、真実を補強する為に経験者からのオーラルヒストリーが必要かも知れません。

 母は、パラシュートと信じていましたから兵隊さんを守る為と思い、迷いもなく仕事に集中出来た言います。この国の為になると思って、長時間労働の為、眠気との戦いであったようです。(今でも敬礼の角度を細かく教えてくれます。当時の指導は厳しかったのでしょう。)

当時は、今上陛下(昭和天皇)ご夫妻の写真が何処の家庭にも飾られていた時代ですが、

冷静にも母と両親(祖父母)は、大きな国アメリカ、物資豊かなアメリカとは勝ち目が無いと当初(真珠湾の開戦時)から家族内ではよく話していたと言っています。

当時の人達は、テレビはなくとも米国の何たるかを、肌で感じ取っていたことがうかがえます。決して、独裁国家で鎖国のような自由の無い情報統制下ではなかったのです。

「風船爆弾」は、全国の女学校生徒が関わっていますので、いくつか書籍が出ているようです。

以前にも、話題になりましたが、この史実を忘れないように、「形」として残して行くことは出来ないものでしょうか。
原料となった和紙を使用した埼玉にあるようですが。

 高崎にあった稀有な歴史、沢山の人の汗と戦火の中に消えた青春期、、、
高崎人が残さないで、一体誰が後世に伝えることが出来るのでしょうか。

数十年後には、こうした会話自体が無くなるであろうことが怖くも思えます。

決して忘れてはいけないのです。
日本の未来の為、そして子供達の為と言って当時頑張って下さった先輩方々、
その未来を生き、その子供達は現在の私達なのですから。

 
 迷道院高崎さん、
その後、何かわかりましたら幸甚でございます。
Posted by シュワちゃん  at 2012年05月26日 17:54
>シュワちゃんさま

申し訳ありません。
その後、風船爆弾についての調べはしておりません。

>当時は、今上陛下(昭和天皇)ご夫妻の写真が何処の家庭にも飾られていた時代ですが、

私の祖父母の家にも飾られていましたね。
昭和30年代の頃です。
祖父は日露戦争に行った時の話は時々していましたが、大東亜戦争の話はまったくしませんでした。

私は戦争そのものは体験していませんが、戦後の色の残る社会はかろうじて知っている世代です。
その世代の人間として、後世に伝えるという使命を果たしているかと問われると、甚だ忸怩たる思いではあります。

残り多いとは言えない人生、心しておきましょう。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年05月26日 20:22
ありがとうございます。

そろそろ、
群馬の森や市役所周辺にそうしたことがあったことを記す何かを残すべく、
市議会なのか県議会なのかはわかりませんが、行動の時期かと考えています。


少々話は変わりますが、

迷道院高崎さん、「高崎」のことではなく恐縮ですが、、、。

旧海軍、岩佐直治大尉(中佐)をご存知かと存じます。

真珠湾において空爆より先に、特殊潜航艇で真珠湾の中まで入っていった前橋市出身の大尉です。
どんな状況下で戦死されたかは、はっきりしていませんが、翌年の昭和17年4月に前橋駅の南口を出て数分の所の自宅へ
県内の多数の旧制中学校の生徒が、弔問に訪れてたいへんであったと言います。

その中に母がいました。全校生徒で行ったそうです。
岩佐大尉のご両親はまだ若く、息子を亡くした悲しみを見て取れたと言っています。ちょうど70年前のことです。
東条首相も弔問しました。
いわゆる戦死した9人を「九軍神」としたからであります。当時はたいへん偉い方が亡くなられたと大騒ぎであったとか。

大尉は高崎出身ではありませんが、、
高崎の旧制中学生がそうした場面に遭遇したということは、戦時下の様子を知ることが出来るかも知れません。
九軍神のことは知っていても、
県内・市内の生徒ほとんどが、弔問に動員されたという事実は誰も知らないのではないでしょうか。

調査をしたことはありませんが、
高崎出身者でもなく、高崎で起こったことでもありませんので、どの資料にも記されていないのではないかと存じます。
学校の資料にはあるかも知れませんね。
Posted by シュワちゃん  at 2012年05月26日 23:38
>シュワちゃんさま

岩佐中佐のことは、詳しく調べたことはありませんが、その名前は存じ上げています。
サラリーマン時代、取引先会社が岩佐中佐の家系だといわれていました。

高崎から両毛線に乗って前橋駅を出るとすぐ、岩佐家のご自宅が見えますね。
今はひっそりしていますが、当時は大変なことだったんですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年05月27日 07:52
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