2011年01月29日

鎌倉街道探訪記(18)

鎌倉街道探訪記(18)「定家神社」の鳥居を背に、新幹線の高架を潜って100mほど東へ進むと、「下佐野第一公民館」の分去れに出ます。

鎌倉街道探訪記(18)


ここに、「放光神社」があります。
社殿は屋根や土台が痛んできたということで、平成22年(2010)に建て替えられたので真新しくなっていますが、由緒はなから古いのです。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」には、このように書かれています。
明治維新に際し再興すといふ。上野国神名帳群馬郡西(東?)部載する所の正四位上放光明神すなはちこれなり。
此処に放光庵と称する仏堂あり。文禄中(1592-96)の建立なりしが、明治九年(1876)に至りこれを廃止、その跡を以て放光神社の神地に併す。
堂は放光山天平寺と称する伽藍の跡なりと。」
平安時代後期に書かれたと思われる、神社のランキング本。

鳥居の横には、「史蹟 放光寺 放光明神跡」と刻まれた、大きな石碑が建っており、裏面には、こう刻まれています。
抑〃(そもそも)吾カ(が)佐野ノ郷ハ 奈良時代既ニ闢(ひら)ク
大化改新前屯倉(みやけ)ヲ設置セラレ 佐野三家ノ首 建守尊(たけもりのみこと)ノ子孫此地ニ住セリ 天平年間(729-49)放光寺ヲ建立シ氏寺トナス 又放光明神ヲ祀リ氏神トナス
彼ノ山上古碑建立者長利僧ハ即チ該寺ノ僧ナリ 尓後悠久千二百年 可惜(おしむべし)史蹟トシテ現存スルモノ唯一祀ノミ
時偶々(たまたま)昭和十四年十月一日 佐野村ノ高崎市ト合併スルヤ 道路ノ拡張ニ依リ地域狭小トナル為ニ 史蹟ノ湮滅(いんめつ)セン事ヲ恐レ記念碑ヲ建立シ両阯ヲ永久ニ保存セントス
 昭和十八年三月二十八日  世話人 赤石治市郎 堀口甚四郎」

鎌倉街道探訪記(18)「山ノ上碑」の碑文に「佐野」という文字があり、山名とも距離的に近いことから、長利という僧がいた「放光寺」はここ佐野にあったと、長いあいだ信じられていました。

しかし、昭和四十九年(1974)前橋市総社町山王廃寺発掘調査で、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が発見され、今は山王廃寺「放光寺」であったという説の方が有力になっているようです。

高崎人としては実に残念な傾向ですが、「まだ決まった訳じゃねんだんべ?」と強がってみたいところです。

鎌倉街道探訪記(18)「三家(屯倉)」(みやけ)は、六世紀から七世紀前半にかけて、各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地のことだそうです。

佐野では、健守命という豪族がその管理をしていたということですから、その子孫は代々財産のある長者であったに違いありません。

それを物語るかのように、佐野には「長者屋敷」という字(あざ)がありました。

実は、そこが「佐野の船橋伝説」に出てくる「朝日の長者」の屋敷があった所だという話があります。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」では「夕日の長者邸趾」となっているが、方角的に烏川の東にあたるので「朝日の長者」の誤りと思われる。

ここもまた佐野ならではの、伝説と謎に満ちた地でありました。
いやー、佐野ってほんとに面白いところですね。

【放光神社】



鎌倉街道探訪記(18)



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Posted by 迷道院高崎 at 21:51
Comments(12)鎌倉街道
この記事へのコメント
1月31日が最終日の
『東国先年の都』
高崎と前橋の文化財展に
30日に行ってきました。
総社町総社の放光寺の
出土品もありました。

この展示会が終わると
これらの出土品は
お蔵入りで
次はいつお目にかかれるか
分からないそうです。

まだの方、
高崎シティーギャラリー
2階第6展示室へ
お出かけください。

わたしは
我が町
上中居遺跡群から出た
勾玉、管玉、破鏡の
確認が目的でした。
Posted by いちじん  at 2011年01月31日 00:22
>いちじんさん

そうでしたか。
上中居も新設道路に伴う発掘がしばらく続いてましたよね。
放光寺の瓦も展示されてましたか?

個人的には、山王廃寺が放光寺であったとしても、長利という僧は佐野出身であったか、あるいは佐野の放光庵が放光寺の末寺で、そこに居たのではないかと思いたいのですがねー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年01月31日 22:44
いちじんさんのコメントを拝読しまして、昨日「東国千年の都」展を見学してきました。山王廃寺出土の瓦も「方光」の銘が読み取れました。やはり、佐野のお寺は迷道院さんの言われるように末寺か出身地であったと思えます。
それにしても佐野近辺ですが、由緒のある寺社が集まり、古墳もあり、古代から中世にかけて繁栄した場所であったことが偲ばれます。


話は変わりますが、一昨日、NHKで「鉢の木」の能を放送していました。あらかじめ貴ブログ記事を拝読していたので、「浅間、板鼻、佐野、山本…、なるほどなるほどと」情景を思い浮かべられて面白かったです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2011年02月01日 18:02
ふれあい街歩きさんへ

1人でも多くの人に
見て頂ければと思って
書き込みましたが
その甲斐がありました。

従兄弟が見たいと言っていたのを
思いだし、
従兄弟と一緒に
最終日に再度
見に行ってきました。

文化財保護課の方が
資料の展示場所がないので
歴史博物館の建設を
市民サイドから
立ち上げる機運を
盛り上げて頂けると・・・と
言っていました。

能「鉢の木」は見逃しました。
Posted by いちじん  at 2011年02月01日 21:09
>ふれあい街歩きさん

佐野近辺、なかなか面白いところです。
佐野公民館の方も、佐野の歴史を発信する企画をお考えのようです。
楽しみですね。

NHKの「鉢の木」、ご覧になったんですね。
あのゆったりとした表現は、せっかちな現代人には馴染めないかも知れませんが、少し見ているとその味が分かるようになってきますね。

タイミングの良い放映で、嬉しかったです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年02月01日 21:37
>いちじんさん

文化財保護課の方のお話、分からないでもないです。
市民が声を出さないと、なかなか動けないというのはあると思います。
応援する必要はあるでしょうね。

ただ、単なる資料の展示場所ではなく、高崎を訪れる観光客に高崎の歴史に興味を持ってもらい、歴史遺産を見に行きたくさせるような、ヴィジターセンターとしての役割を持たせたいものですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年02月01日 21:49
お知らせ

明日、2月5日10:00~
高崎五万石騒動研究会では
義人堂で
騒動の犠牲者を偲ぶ会を
します。
義人堂を清掃し
花を手向け、お経を上げ、線香を
立てるというものです。

今回が初めてですが、
今後、毎年2月4日の週の土曜日に
することにしました。
ご関心のある方は
どうぞ、お出かけください。



迷道院さんへ

そこで、かるたの
「せ」のところに
このメッセージを
書き込もうとしたのですが、
「す」と「せ」が
見当たりません。
ご確認をお願いします。

「せ」
 線香の絶えることなし義人堂
Posted by いちじん  at 2011年02月04日 08:28
>いちじんさん

そうか、2月4日は佐藤三喜造と高井喜三郎が処刑された日でしたね。

義人堂の立派な石碑は、一路堂を設計した水原徳言氏のデザインでしたよね。

ところで、五万石騒動かるたの「せ」は、11月25日の記事で使わせて頂きました。
http://inkyo.gunmablog.net/e134882.html

「す」は、その前日です。
随分長い間、使わせて頂いております。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年02月04日 21:43
探し方が悪くて
見つかりませんでした。
大変失礼しました。

義人堂の設計者は
水野徳言氏でしたか、
知りませんでした。
昨年、観音山の一路堂では
大変お世話になりました。
Posted by いちじん  at 2011年02月04日 23:20
>いちじんさん

五万石騒動カルタを、脈絡なく使わせて頂いているので、探し辛くなってすみませんでした。

今日の慰霊祭の様子、いちじんさんのブログで拝見しました。
全市民的な慰霊祭になるといいですね。

10月17日の高崎城への行進も再現できたら、騒動のことを知ってもらうには効果がありそうですね。

いちじんさんのブログ記事は、下記URLからどうぞ。
http://kokoronotabi.cocolog-nifty.com/kokoro/2011/02/post-5583.html
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年02月05日 22:33
7年前のコメントを読んで、非常に懐かしく思いました。
迷道院高崎さんの発案(高崎城への行進)が、7年後の今年(11月11日)、ミニ版ですが実現しました。これは、迷道院高崎さんのお陰です。ありがとうございました。
さて、私の小・中学校の親しい同級生に、下佐野生まれの堀口君がいます。先日、五万石騒動に参加した堀口久四郎さんは身内ではないですかと尋ねたところ、「私の曽祖父は堀口甚四郎です」とのことでした。放光神社の石碑を建立した人が甚四郎さんであると明記されていたので、早速堀口君に知らせました。
Posted by いちじん  at 2018年12月23日 18:34
>いちじんさん

高崎城押し出しウォーキングは大成功でしたね。
アイデアはただの隠居の思い付きですが、それを実現させた皆さんの力がすごかったんですよ。

何気なく書いた碑文の記事が、そういう関係としてつながったとは驚きです。
いちじんさんの縁つなぎのパワーを感じます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2018年12月23日 21:28
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