佐野橋の近くに、「常世(つねよ)神社」があります。
謡曲「鉢木」で有名な、佐野源左衛門常世の居宅跡と伝えられています。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、こんな記述があります。
「喬木脩竹に介し、鬱蒼たり。中に小石祠あり。土人之を常世神社と称す。
上野風土記上野志ならびにいふ、常世は下野佐野の人なり。その領地伯父源藤太常景の横領する所となり、この地に来たり蟄居すと。
或いは然(さ)らん。(もしかするとそうかも知れない)」
狭い参道を進むと、「お願い 扉を開けて自由にご覧ください。
お帰りの時閉めて下さい。」という、風変わりな看板が建っています。
言われる通り左の掲示板のような扉を開けると、佐野源左衛門常世が鉢の木を鉈で伐っているところの絵が現れました。
謡曲「鉢木」のあらすじは皆さんご存知と思いますが、原文はこんな粋な文句で始まります。
佐野源左衛門常世の墓といわれるものが、栃木県佐野市鉢木町の願成寺にあるので、謡曲「鉢木」の舞台は栃木県の佐野だと思っている人もいるようですが、上の文からもはっきりと高崎の佐野であることが分かります。
宿を借りたいと思っているのは、最明寺入道という修行僧。
その実は、鎌倉幕府第五代執権の北条時頼です。
病に倒れたため、執権職を義兄の北条長時に譲って出家し、諸国を巡歴していました。
常世は一夜の宿を乞われますが、こういって断ります。
「山本の里」というのは、山名の「山ノ上碑」の下辺りだったそうです。
一旦は断ったものの気の毒に思った常世は、僧の後を追って連れ戻します。
修行僧に、わずかに残る粟(あわ)飯をふるまい、大切にしていた鉢の木を切って囲炉裏にくべ、「いざ鎌倉」の心意気を語るクライマックス・シーンとなります。
さて、それから暫く日が経って、鎌倉幕府から諸国へ非常招集がかかります。
粗末な装備で駆け付けた常世は、あの雪の夜の修行僧が北条時頼であったことを知ります。
時頼は、常世に親しく声を掛け、横領された領地を戻し、さらに、常世が薪にした梅桜松の鉢の木に因んで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝(松井田)をも所領として与えたというお話です。
参道のいちばん奥に、こじんまりとした社があります。
この中に、「土人之を常世神社と称」したという石祠が納められています。
石祠の前には、「佐野源左衛門常世神社」と書かれたお札と、「いざ鎌倉」の常世の姿と思われる絵札とがあります。
また石祠の上には、観世流長野滔声会の奉納額と、赤坂町の老舗菓子店・七ふく(現・鉢の木七冨久)の奉納額が掲げられていました。
「常世神社」も「鉢の木七冨久」さんも、どちらかといえば町の中心から離れてはいますが、由緒ある歴史に因んだ名所と銘菓です。
高崎の観光資源として、もっともっと市民に知られていてもよいように思います。
謡曲「鉢木」で有名な、佐野源左衛門常世の居宅跡と伝えられています。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、こんな記述があります。
「喬木脩竹に介し、鬱蒼たり。中に小石祠あり。土人之を常世神社と称す。
上野風土記上野志ならびにいふ、常世は下野佐野の人なり。その領地伯父源藤太常景の横領する所となり、この地に来たり蟄居すと。
或いは然(さ)らん。(もしかするとそうかも知れない)」
狭い参道を進むと、「お願い 扉を開けて自由にご覧ください。
お帰りの時閉めて下さい。」という、風変わりな看板が建っています。
言われる通り左の掲示板のような扉を開けると、佐野源左衛門常世が鉢の木を鉈で伐っているところの絵が現れました。
謡曲「鉢木」のあらすじは皆さんご存知と思いますが、原文はこんな粋な文句で始まります。
信濃なる、浅間の岳に立つ煙、遠近人(おちこちびと)の袖寒く、吹くや嵐の大井山、捨つる身になき伴の里。今ぞ憂き世を離れ坂、墨の衣の碓氷川、下す筏の板鼻や、佐野の渡りに着きにけり。 | ||
急ぎ侯ふほどに、これははや上野の国佐野のわたりに着きて候、あまりの大雪にて候ふほどに、この所に宿を借り泊まらばやと思ひ候。 |
佐野源左衛門常世の墓といわれるものが、栃木県佐野市鉢木町の願成寺にあるので、謡曲「鉢木」の舞台は栃木県の佐野だと思っている人もいるようですが、上の文からもはっきりと高崎の佐野であることが分かります。
宿を借りたいと思っているのは、最明寺入道という修行僧。
その実は、鎌倉幕府第五代執権の北条時頼です。
病に倒れたため、執権職を義兄の北条長時に譲って出家し、諸国を巡歴していました。
常世は一夜の宿を乞われますが、こういって断ります。
易きほどのおんことにて侯へども、あまりに見苦しく候ふほどに、お宿はかなひ候ふまじ、この山端をあなたへ十八町ほどおん出で候へば、山本の里と申して泊まりの候、日の暮れぬ先にただひと足もおん急ぎ候ヘ おん痛はしくは侯へども、われら二人さへ住みかねたる体にて候ふほどに、なかなか思ひも寄らず侯。 |
「山本の里」というのは、山名の「山ノ上碑」の下辺りだったそうです。
一旦は断ったものの気の毒に思った常世は、僧の後を追って連れ戻します。
修行僧に、わずかに残る粟(あわ)飯をふるまい、大切にしていた鉢の木を切って囲炉裏にくべ、「いざ鎌倉」の心意気を語るクライマックス・シーンとなります。
それがしもと世にありし時は、鉢の木に好きあまた持ちて侯へども、かやうに散々の体と罷り成り、いやいや木好きも無用と存じ、皆人に参らせて候ふさりながら、いまだ三本持ちて侯、あの雪持ちたる木にて侯、これは梅桜松にて、それがしが秘蔵にて候へども、今夜のおもてなしに、この木を切り火に焚いてあて申さう。 |
かやうに落ちぶれては侯へども、今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともこの具足取つて投げ掛け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に弛せ参じ着到に付き、さて合戦始まらば、敵大勢ありとても、一番に破(わ)つて入り、思ふ敵と寄り合ひ、打ち合ひて死なんこの身の、このままならば徒らに、飢ゑに疲れて死なん命、なんぼう無念のことざうぞ。 |
さて、それから暫く日が経って、鎌倉幕府から諸国へ非常招集がかかります。
粗末な装備で駆け付けた常世は、あの雪の夜の修行僧が北条時頼であったことを知ります。
時頼は、常世に親しく声を掛け、横領された領地を戻し、さらに、常世が薪にした梅桜松の鉢の木に因んで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝(松井田)をも所領として与えたというお話です。
参道のいちばん奥に、こじんまりとした社があります。
この中に、「土人之を常世神社と称」したという石祠が納められています。
石祠の前には、「佐野源左衛門常世神社」と書かれたお札と、「いざ鎌倉」の常世の姿と思われる絵札とがあります。
また石祠の上には、観世流長野滔声会の奉納額と、赤坂町の老舗菓子店・七ふく(現・鉢の木七冨久)の奉納額が掲げられていました。
「常世神社」も「鉢の木七冨久」さんも、どちらかといえば町の中心から離れてはいますが、由緒ある歴史に因んだ名所と銘菓です。
高崎の観光資源として、もっともっと市民に知られていてもよいように思います。
【常世神社】
【鉢の木七冨久】