12月4日は、やけに殿様に縁のある日でした。
まず、その午前中のお話。
県立文書館主催の「ふるさと再発見講座」が、東町の労使会館であるというので行ってみました。
講演者は高崎の殿様のご子孫・安藤綾信氏、演題は「駿河大納言忠長卿」です。
忠長卿は、兄の将軍・家光よりも英俊であったために疎まれたとか、家臣を手打ちにするなどの狂乱があったとか、その真偽は定かでありませんが、高崎藩主・安藤重長に預けるという形で、寛永九年(1632)高崎城内に幽閉されます。
安藤重長の数度に及ぶ赦免嘆願も空しく、翌、寛永十年(1633)ついに忠長卿に切腹の命が下ります。
憐れに思った重長は、なかなかそのことを忠長卿に伝えられません。
数か月経った後、重長は忠長卿の部屋から見える庭先に、鹿柴(ろくさい:竹矢来)を組みます。
それを見た忠長卿はすべてを悟り、お付きの者に用事を言いつけて部屋から下げると、その間にひとり自刃して果てたといいます。
28歳の若さでした。
新聞記事にもあるように、綾信氏は22年前から毎年、大信寺で忠長卿供養のための「忠長卿追福茶会」を開いています。
それまでも、安藤家では毎年12月に忠長卿供養のために陸膳を上げていましたが、一度、忠長卿のお墓参りをしようと大信寺に連絡を取ったのだそうです。
それが、市の方に伝わり、市長や教育長まで参加することになるのですが、その後がいかにも高崎市らしい話しなので、ぜひ音声でお聞きください。
講演の後、参加者は大信寺の忠長卿のお墓へ行ってお参りをしました。
忠長卿は自刃後、大信寺に葬られたものの、墓石を建てることは許されませんでした。
それを許されたのは、第五代将軍・綱吉の延宝三年(1675)、忠長卿死後42年経ってのことでした。
許された理由は、第四代将軍・家綱が若くして亡くなり、綱吉の子も生まれるとすぐ亡くなるなど不吉なことが続き、これは忠長卿の祟りに違いない、と恐れられたからだといわれています。
墓所には写真のように立派な唐門がありましたが、昭和二十年(1945)八月十四日の空襲で、焼失してしまいました。
唐門の上に枝を延ばしている老松が、伝説の「わたかけの松」です。
忠長卿が、大信寺の伽藍の手すりに片足をかけ、立腹を切って出した腸(はらわた)を投げつけたら、この松の枝に引っかかったという話が伝わっています。
その怨念から、この松は決して江戸に向かって枝を延ばさなかったとも伝えられていますが、昭和三十八年(1963)頃枯死したため、伐採して寺の客殿天井に使われたということです。
実際に忠長卿が自刃したのは高崎城内の部屋です。
その「自刃の間」は、不浄ということで赤坂町の長松寺に払い下げとなりました。
この日は、めったに見られない忠長卿の御位牌を見せて頂くことができました。→
もうひとつ、貴重な品がこれです。 ↓
大坂夏の陣で徳川勢に包囲され、大阪城で自刃した豊臣秀頼の着用した陣羽織を、袈裟に作りかえたものです。
なぜ秀頼の陣羽織が、この大信寺にあるのか不思議です。
この陣羽織は、天樹院より贈られたものとありますが、天樹院とは豊臣秀頼の正室・千姫です。
そして、千姫の弟にあたるのが忠長卿という繋がりになる訳です。
秀頼と忠長卿には、不思議ともいえる因縁を感じます。
まず、大阪城に籠る秀頼に「自決すべし」と迫ったのは、安藤重長の父・重信でした。
そして、秀頼の子もまた捕えられ殺害されますが、その名は忠長卿の幼名と同じ、国松でした。
祖父が徳川家康であったために大阪城から救出された天樹院(千姫)が、非業の死を遂げた夫・秀頼と弟・忠長の二人を悼んで、寄贈した陣羽織だったのでしょう。
そんな天樹院の意を汲んで、菩提のために袈裟にしたものだそうです。
さて、来年の大河ドラマは「江 ~姫たちの戦国~」だそうですね。
この、江(ごう)こそ天樹院(千姫)の母です。
ということは、忠長卿の母でもある訳です。
高崎と大いに関係のあるドラマじゃありませんか。
高崎市がこの機をどう活かすか、期待しているところでありますが・・・。
まず、その午前中のお話。
県立文書館主催の「ふるさと再発見講座」が、東町の労使会館であるというので行ってみました。
講演者は高崎の殿様のご子孫・安藤綾信氏、演題は「駿河大納言忠長卿」です。
忠長卿は、兄の将軍・家光よりも英俊であったために疎まれたとか、家臣を手打ちにするなどの狂乱があったとか、その真偽は定かでありませんが、高崎藩主・安藤重長に預けるという形で、寛永九年(1632)高崎城内に幽閉されます。
安藤重長の数度に及ぶ赦免嘆願も空しく、翌、寛永十年(1633)ついに忠長卿に切腹の命が下ります。
憐れに思った重長は、なかなかそのことを忠長卿に伝えられません。
数か月経った後、重長は忠長卿の部屋から見える庭先に、鹿柴(ろくさい:竹矢来)を組みます。
それを見た忠長卿はすべてを悟り、お付きの者に用事を言いつけて部屋から下げると、その間にひとり自刃して果てたといいます。
28歳の若さでした。
新聞記事にもあるように、綾信氏は22年前から毎年、大信寺で忠長卿供養のための「忠長卿追福茶会」を開いています。
それまでも、安藤家では毎年12月に忠長卿供養のために陸膳を上げていましたが、一度、忠長卿のお墓参りをしようと大信寺に連絡を取ったのだそうです。
それが、市の方に伝わり、市長や教育長まで参加することになるのですが、その後がいかにも高崎市らしい話しなので、ぜひ音声でお聞きください。
講演の後、参加者は大信寺の忠長卿のお墓へ行ってお参りをしました。
忠長卿は自刃後、大信寺に葬られたものの、墓石を建てることは許されませんでした。
それを許されたのは、第五代将軍・綱吉の延宝三年(1675)、忠長卿死後42年経ってのことでした。
許された理由は、第四代将軍・家綱が若くして亡くなり、綱吉の子も生まれるとすぐ亡くなるなど不吉なことが続き、これは忠長卿の祟りに違いない、と恐れられたからだといわれています。
墓所には写真のように立派な唐門がありましたが、昭和二十年(1945)八月十四日の空襲で、焼失してしまいました。
唐門の上に枝を延ばしている老松が、伝説の「わたかけの松」です。
忠長卿が、大信寺の伽藍の手すりに片足をかけ、立腹を切って出した腸(はらわた)を投げつけたら、この松の枝に引っかかったという話が伝わっています。
その怨念から、この松は決して江戸に向かって枝を延ばさなかったとも伝えられていますが、昭和三十八年(1963)頃枯死したため、伐採して寺の客殿天井に使われたということです。
実際に忠長卿が自刃したのは高崎城内の部屋です。
その「自刃の間」は、不浄ということで赤坂町の長松寺に払い下げとなりました。
この日は、めったに見られない忠長卿の御位牌を見せて頂くことができました。→
もうひとつ、貴重な品がこれです。 ↓
大坂夏の陣で徳川勢に包囲され、大阪城で自刃した豊臣秀頼の着用した陣羽織を、袈裟に作りかえたものです。
なぜ秀頼の陣羽織が、この大信寺にあるのか不思議です。
この陣羽織は、天樹院より贈られたものとありますが、天樹院とは豊臣秀頼の正室・千姫です。
そして、千姫の弟にあたるのが忠長卿という繋がりになる訳です。
秀頼と忠長卿には、不思議ともいえる因縁を感じます。
まず、大阪城に籠る秀頼に「自決すべし」と迫ったのは、安藤重長の父・重信でした。
そして、秀頼の子もまた捕えられ殺害されますが、その名は忠長卿の幼名と同じ、国松でした。
祖父が徳川家康であったために大阪城から救出された天樹院(千姫)が、非業の死を遂げた夫・秀頼と弟・忠長の二人を悼んで、寄贈した陣羽織だったのでしょう。
そんな天樹院の意を汲んで、菩提のために袈裟にしたものだそうです。
さて、来年の大河ドラマは「江 ~姫たちの戦国~」だそうですね。
この、江(ごう)こそ天樹院(千姫)の母です。
ということは、忠長卿の母でもある訳です。
高崎と大いに関係のあるドラマじゃありませんか。
高崎市がこの機をどう活かすか、期待しているところでありますが・・・。
(参考図書:「高崎の名所と伝説」)
【大信寺・忠長卿墓所】