2010年12月08日

殿様に縁のある日(その壱)

12月4日は、やけに殿様に縁のある日でした。
まず、その午前中のお話。

県立文書館主催の「ふるさと再発見講座」が、東町労使会館であるというので行ってみました。
講演者は高崎殿様のご子孫・安藤綾信氏、演題は「駿河大納言忠長卿」です。

忠長卿は、兄の将軍・家光よりも英俊であったために疎まれたとか、家臣を手打ちにするなどの狂乱があったとか、その真偽は定かでありませんが、高崎藩主・安藤重長に預けるという形で、寛永九年(1632)高崎城内に幽閉されます。

安藤重長の数度に及ぶ赦免嘆願も空しく、翌、寛永十年(1633)ついに忠長卿に切腹の命が下ります。
憐れに思った重長は、なかなかそのことを忠長卿に伝えられません。
数か月経った後、重長忠長卿の部屋から見える庭先に、鹿柴(ろくさい:竹矢来)を組みます。
それを見た忠長卿はすべてを悟り、お付きの者に用事を言いつけて部屋から下げると、その間にひとり自刃して果てたといいます。
28歳の若さでした。

新聞記事にもあるように、綾信氏は22年前から毎年、大信寺忠長卿供養のための「忠長卿追福茶会」を開いています。
それまでも、安藤家では毎年12月に忠長卿供養のために陸膳を上げていましたが、一度、忠長卿のお墓参りをしようと大信寺に連絡を取ったのだそうです。
それが、市の方に伝わり、市長教育長まで参加することになるのですが、その後がいかにも高崎市らしい話しなので、ぜひ音声でお聞きください。



講演の後、参加者は大信寺忠長卿のお墓へ行ってお参りをしました。

忠長卿は自刃後、大信寺に葬られたものの、墓石を建てることは許されませんでした。
それを許されたのは、第五代将軍・綱吉の延宝三年(1675)、忠長卿死後42年経ってのことでした。

許された理由は、第四代将軍・家綱が若くして亡くなり、綱吉の子も生まれるとすぐ亡くなるなど不吉なことが続き、これは忠長卿の祟りに違いない、と恐れられたからだといわれています。

墓所には写真のように立派な唐門がありましたが、昭和二十年(1945)八月十四日の空襲で、焼失してしまいました。

唐門の上に枝を延ばしている老松が、伝説の「わたかけの松」です。

忠長卿が、大信寺の伽藍の手すりに片足をかけ、立腹を切って出した腸(はらわた)を投げつけたら、この松の枝に引っかかったという話が伝わっています。

その怨念から、この松は決して江戸に向かって枝を延ばさなかったとも伝えられていますが、昭和三十八年(1963)頃枯死したため、伐採して寺の客殿天井に使われたということです。

実際に忠長卿が自刃したのは高崎城内の部屋です。
その「自刃の間」は、不浄ということで赤坂町長松寺に払い下げとなりました。
長松寺に移された「自刃の間」は、↓こちらのブログに写真が載ってます。
◇高崎城の書院移築遺構(旦さまと私さんのブログ)

この日は、めったに見られない忠長卿の御位牌を見せて頂くことができました。→

もうひとつ、貴重な品がこれです↓

大坂夏の陣で徳川勢に包囲され、大阪城で自刃した豊臣秀頼の着用した陣羽織を、袈裟に作りかえたものです。

なぜ秀頼陣羽織が、この大信寺にあるのか不思議です。
この陣羽織は、天樹院より贈られたものとありますが、天樹院とは豊臣秀頼の正室・千姫です。
そして、千姫の弟にあたるのが忠長卿という繋がりになる訳です。

秀頼忠長卿には、不思議ともいえる因縁を感じます。
まず、大阪城に籠る秀頼「自決すべし」と迫ったのは、安藤重長の父・重信でした。
そして、秀頼の子もまた捕えられ殺害されますが、その名は忠長卿の幼名と同じ、国松でした。

祖父が徳川家康であったために大阪城から救出された天樹院(千姫)が、非業の死を遂げた夫・秀頼と弟・忠長の二人を悼んで、寄贈した陣羽織だったのでしょう。
そんな天樹院の意を汲んで、菩提のために袈裟にしたものだそうです。

さて、来年の大河ドラマは「江 ~姫たちの戦国~」だそうですね。
この、(ごう)こそ天樹院(千姫)の母です。
ということは、忠長卿の母でもある訳です。
高崎と大いに関係のあるドラマじゃありませんか。

高崎市がこの機をどう活かすか、期待しているところでありますが・・・。

(参考図書:「高崎の名所と伝説」)


【大信寺・忠長卿墓所】







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この記事へのコメント
上毛新聞の記事を拝読しました。

高崎空襲まで立派な唐門があったのですね。前に芝の増上寺の徳川将軍家霊廟の写真を見たことがあるのですが、唐門の形、造りがとても似ていると改めて思いました。

写真が残っているので、出来れば復元して後世に残して欲しいです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2010年12月08日 22:54
>ふれあい街歩きさん

そうですね、復元できるといいですが。

墓石に刻まれている紋も、いわゆる「葵のご紋」ではなくて「裏葵」というのも、曰くがあるようで。
http://img01.gunmablog.net/usr/inkyo/tadanaga_oguri_03.jpg?k=1291845415

高崎の史跡の中では比較的有名なので、観光資源としてもっと上手に発信するといいと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月09日 07:00
大信寺には、妹の連れ合いの
両親のお墓があります。
一度、法事で行ったことがあります。

4日は、行きたかったのですが
我家の行事とバッテング、
行けませんでした。
でも、当ブログで
安藤綾信氏の声が聞けて
良かったです。
感謝します。
Posted by いちじん  at 2010年12月09日 18:13
>いちじんさん

次回の記事でご紹介しますが、この日の午後は小栗上野介展のオープニング行事もあって、昼飯抜きでそちらへも参加しました。
講演中にお腹の虫ががグーグー鳴くので恥ずかしかったです(^_^)

綾信氏、さすがお殿様のご子孫だけに、穏やかで気品がありました。
やはり、違うもんなんですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月09日 21:02
安藤綾信氏が長年にわたり忠長卿追福茶会を開いていることは、素晴らしいですね。

高崎市が歴史と大いに関わりがあったことも興味深いものですが、忠長の側近の池田三郎左衛門貞長も気になります。
一度は忠長によって藩を追われた身の上なのに、主君の死後遺言を実行し殉死してしまうなんて・・・。武士の心構えとは大変なものだったのですね。
Posted by 風子  at 2010年12月10日 16:36
>風子さん

綾信氏も言っておられましたが、知る人しか知らない茶会になっているようです。
高崎市がもう少し関与して広めてもよいと思いますが・・・。

さすが風子さん、池田三郎左衛門貞長をよくご存知で。
忠長卿も後から、自分のことを一番思っていたのは池田だったと気付いて、ずーっと気にかけていたのでしょうね。

殉死とは何とも不合理ではありますが、理を超える何かが生きていた時代、ということでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月10日 21:59
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