「本町」と書いて「ほんちょう」とか「ほんまち」とよむところもありますが、
高崎は「もとまち」です。
慶長三年(1598)井伊直政は、和田と呼ばれていた地に城を築き、高崎と改めて城下町を整備しました。
和田時代も、この地は信州、奥州、下野・武蔵をつなぐ交通の要衝で、宿場としての機能を持っていました。
井伊直政が城を築きたいと思うその場所には、和田時代の宿場「馬上(ばじょう)宿」と「金井宿」があったのです。
「馬上宿」は現在の高崎市庁舎辺り、「金井宿」は現在の高崎郵便局辺りと言われています。
そこで最初に、この宿場を城下の北端に移し、「根本の町」という意味で「本町(もとまち)」としたのだそうです。
下の図は、元禄十六年(1703)頃の本町通りの様子です。
道幅は四間(7.3m)~四間四尺(8.4m)、長さは四町八間(450m)、正確に東西方向に作られていて、春秋中日の日の出、日の入りの方向に合っているそうです。
道の両側に、びっしりと家が並んでいますが、ほとんどの家の間口は三間(5.5m)と狭く、奥行きが二十四間(43.6m)~二十七間(49.1m)という、いわゆる「鰻の寝床」でした。
中には、間口五間(9.1m)や六間(10.9m)の家もありましたが、間口の広さで税額が決まるので、ほとんどの家は間口を狭くしたようです。
図を見ると、「旅籠屋」の多いのに気が付きますが、元禄十六年の本町には36軒あったそうです。
田町には1軒もなく、新(あら)町は6軒ですから、いかに本町に集中していたかが分かります。
このような家混みで、賑わう所につきものなのが火災です。
本町も、度々、大きな火災があったため、街道に面した商店は土蔵造りにする家が多かったと言います。
次回は、本町に今も残る土蔵を探してみたいと思います。
高崎は「もとまち」です。
慶長三年(1598)井伊直政は、和田と呼ばれていた地に城を築き、高崎と改めて城下町を整備しました。
和田時代も、この地は信州、奥州、下野・武蔵をつなぐ交通の要衝で、宿場としての機能を持っていました。
井伊直政が城を築きたいと思うその場所には、和田時代の宿場「馬上(ばじょう)宿」と「金井宿」があったのです。
「馬上宿」は現在の高崎市庁舎辺り、「金井宿」は現在の高崎郵便局辺りと言われています。
そこで最初に、この宿場を城下の北端に移し、「根本の町」という意味で「本町(もとまち)」としたのだそうです。
下の図は、元禄十六年(1703)頃の本町通りの様子です。
道幅は四間(7.3m)~四間四尺(8.4m)、長さは四町八間(450m)、正確に東西方向に作られていて、春秋中日の日の出、日の入りの方向に合っているそうです。
道の両側に、びっしりと家が並んでいますが、ほとんどの家の間口は三間(5.5m)と狭く、奥行きが二十四間(43.6m)~二十七間(49.1m)という、いわゆる「鰻の寝床」でした。
中には、間口五間(9.1m)や六間(10.9m)の家もありましたが、間口の広さで税額が決まるので、ほとんどの家は間口を狭くしたようです。
図を見ると、「旅籠屋」の多いのに気が付きますが、元禄十六年の本町には36軒あったそうです。
田町には1軒もなく、新(あら)町は6軒ですから、いかに本町に集中していたかが分かります。
このような家混みで、賑わう所につきものなのが火災です。
本町も、度々、大きな火災があったため、街道に面した商店は土蔵造りにする家が多かったと言います。
次回は、本町に今も残る土蔵を探してみたいと思います。
(参考図書:「本町今昔物語」「新編 高崎市史」「高崎繁昌記」)