2010年09月10日

本町今昔物語(2)

「本町」と書いて「ほんちょう」とか「ほんまち」とよむところもありますが、
高崎「もとまち」です。

慶長三年(1598)井伊直政は、和田と呼ばれていた地に城を築き、高崎と改めて城下町を整備しました。

和田時代も、この地は信州、奥州、下野・武蔵をつなぐ交通の要衝で、宿場としての機能を持っていました。


井伊直政が城を築きたいと思うその場所には、和田時代の宿場「馬上(ばじょう)宿」「金井宿」があったのです。

「馬上宿」は現在の高崎市庁舎辺り、「金井宿」は現在の高崎郵便局辺りと言われています。

そこで最初に、この宿場を城下の北端に移し、「根本の町」という意味で「本町(もとまち)」としたのだそうです。

下の図は、元禄十六年(1703)頃の本町通りの様子です。


道幅は四間(7.3m)~四間四尺(8.4m)、長さは四町八間(450m)、正確に東西方向に作られていて、春秋中日の日の出、日の入りの方向に合っているそうです。

道の両側に、びっしりと家が並んでいますが、ほとんどの家の間口は三間(5.5m)と狭く、奥行きが二十四間(43.6m)~二十七間(49.1m)という、いわゆる「鰻の寝床」でした。
中には、間口五間(9.1m)や六間(10.9m)の家もありましたが、間口の広さで税額が決まるので、ほとんどの家は間口を狭くしたようです。

図を見ると、「旅籠屋」の多いのに気が付きますが、元禄十六年の本町には36軒あったそうです。
田町には1軒もなく、新(あら)町は6軒ですから、いかに本町に集中していたかが分かります。

このような家混みで、賑わう所につきものなのが火災です。
本町も、度々、大きな火災があったため、街道に面した商店は土蔵造りにする家が多かったと言います。

次回は、本町に今も残る土蔵を探してみたいと思います。

(参考図書:「本町今昔物語」「新編 高崎市史」「高崎繁昌記」)





同じカテゴリー(高崎町なか)の記事画像
史跡看板散歩-32 高砂町(2)
史跡看板散歩-31 高砂町(1)
史跡看板散歩-29 一里塚跡(九蔵町)
史跡看板散歩-28 九蔵稲荷
史跡看板散歩-27 御伝馬事件供養碑
史跡看板散歩-26 文学僧・良翁
同じカテゴリー(高崎町なか)の記事
 史跡看板散歩-32 高砂町(2) (2017-02-19 07:14)
 史跡看板散歩-31 高砂町(1) (2017-02-12 07:48)
 史跡看板散歩-29 一里塚跡(九蔵町) (2017-01-29 07:19)
 史跡看板散歩-28 九蔵稲荷 (2017-01-22 07:53)
 史跡看板散歩-27 御伝馬事件供養碑 (2017-01-15 07:14)
 史跡看板散歩-26 文学僧・良翁 (2017-01-08 07:27)

この記事へのコメント
本町には、漆屋の山田尚美ちゃんの家がありました、黒い蔵造りの家です。いまでも普通にすんでいるのだろうか?
Posted by tack  at 2010年09月10日 22:49
>tackさん

あー、有名な「山源」さんの店蔵ですね。

尚美さんがいるかどうかは分かりませんが、今でもお住まいになってますよ。
普段は内部非公開ですが、先日、ちょこっとだけ中を見せて頂きました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月11日 08:01
何度見ても、「ほんちょう」と読んでしまう私です。(^^;
昔の絵地図を見るのは楽しいですねー。
当時の暮しを想像しながら見るとタイムスリップ
できそうな感じで・・・。
旅籠がずらりと並んでいて、街道の賑わいを感じますね。
以前、TVで関西や他の地方でも間口が狭い町屋の話題を
見たことがありますが、いずこも同じなのですね^^。
Posted by 風子  at 2010年09月11日 12:26
江戸末期は本町と新(あら)町しか旅籠の営業を許可していなかったようです。煙草問屋もあら町だったそうです。その他、紙屋は連雀町とか...町内ごとに許可があったようです。
幕末から明治初年にかけて高崎藩から新(あら)町に伝馬の費用を課していましたが、その費用を賄うために見世物興業や相撲興業を願い出て却下されます。そして起こった事件が御伝馬事件です。このときは本町から助けを受けて解決したようです。このとき捕まった中には初代高崎市長の矢島八郎氏の父もいました。
今でも町として毎年延養寺さんで御伝馬事件の碑のご供養をしています。
Posted by 元氣が一番!元氣が一番!  at 2010年09月11日 14:27
>風子さん

ふれあい街歩きさんのコメントによると、
全国に「本町」があるようなので、
読み方を調べてみると面白いかも知れませんね。

間口の広さで課税額を決めるというのは、
面白い考え方ですよね。
一部の金持ちの独占を規制して、
多くの町民に、多様な商いをさせようという
考え方なんでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月11日 21:22
>元氣が一番!さん

すごい規制社会だったんですね。
その中で逞しく生きていた庶民、
これまた、すごい知恵があったんだと思います。

それでもカバーし切れずに願い出たら、
牢屋に繋がれちゃったという訳ですか。
現代は、ほったらかしにされることが多いようですね。

実は私、延養寺のすぐそばで生まれました。
延養寺に捨てられてたという話もあるんですが・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月11日 21:37
迷道院高崎さん

>実は私、延養寺のすぐそばで生まれました。
>延養寺に捨てられてたという話もあるんです
>が・・・。。

ホントにご近所さんだったのですね。これからもよろしくお願いしますm(__)m
僕も「聖石橋の下で拾ってきた」云われていました。
Posted by 元氣が一番!元氣が一番!  at 2010年09月12日 08:18
>元氣が一番!さん

こちらこそ、宜しくお願いします。

「天狗湯」という銭湯があって、その隣で生まれました。
右隣は「鳥甚(だったかな?)」という、鶏肉屋さんでした。

昔の子供は、大体どこかで拾われてきたんですね(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月12日 08:54
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
本町今昔物語(2)
    コメント(8)