2010年08月04日

一路堂と一路居士

一路堂と一路居士観音山慈眼院本堂の崖下に、ひっそりと建っている「一路堂」(いちろどう)。

高崎市民でも、その存在すら知らない方が多いのではないかと思います。

本堂裏手の木戸「一路堂」の入口ですが、普段は閉ざされたままです。

「一路堂」の完成は36年前(昭和49年:1974)のことですが、私自身、その中に入ったのは前回の記事に書いた通り、初めてでした。

一路堂と一路居士「一路堂」の玄関に「一路堂記」という、この建物の由来が掲げられています。

ここに書かれている馬場一路居士こそが、「一路堂」という名前の由来です。

さて、この馬場一路居士とはどのような人物なのでしょうか。

一路堂と一路居士←この人が、馬場一路氏です。

本名・馬場一郎、明治二十一年(1888)群馬県高崎町大字高砂町(高砂町)で出生となっていますが、実際は母方の祖父宅がある宮元町の士族屋敷で生まれたといいます。
父母の家業は製糸業でしたが、一郎出生の翌年、事業に失敗しています。

子どもの頃から学業優秀だった一郎は、14、5歳の頃から文章や絵の制作に興味を持ち始め、17歳で中学校を卒業すると上京し、中国貿易商・晩翠軒に就職します。
ここで、書画・陶器などの見識を磨いた一郎は、23歳で晩翠軒を退職して独立し、「馬場一郎商店」を開きます。

商売は軌道に乗り、文人墨客との交流も深まった26歳の時、夏目漱石「和風堂」という屋号を命名してもらいます。
その後2度にわたるもらい火で店を消失しますが、40歳にして丸ビルに「和風堂」を新設し、商売は更に順調に伸びて行きました。

一郎が、自らを一路居士と号して観音施画を始めたのは、42歳の頃です。
一路という号は、17歳の時愛読した黒岩涙香「天人論」中の一節、「ああ向上の一路ある哉」に因るものだそうです。

一路堂と一路居士一路氏は、生涯で3万3787体の観音画を描きますが、3万1493体目にあたる白衣観音像を刻んだ石碑が、赤坂町恵徳寺参道に建立されています。

一路氏が観音山で観音施画会を催したのは、昭和三十四年(1959)71歳の時です。
この年、一路氏は最後の観音画を描いた後、脳血栓に倒れ、6年後の昭和四十年にこの世を去ります。

一路堂と一路居士一路氏のお墓は、やはり赤坂町恵徳寺にあると、本に書かれています。

その墓を探しに恵徳寺へ行ったのですが、どうしても見つかりません。
ギブアップして、ご住職にお聞きして分かったのが、写真のお墓です。

そのお墓は、墓石の台座のような姿で、馬場という文字も刻まれていません。
これでは、見つかるはずがありません。
いかにも派手を好まぬ一路氏らしいお墓と言えば、そうかもしれません。
側面に小さな文字でうっすらと、「無染院和風一路大居士」と刻まれていました。

「一路堂」が建設されたのは昭和四十九年ですから、死後9年後のことです。
建設の由来は、こうです。

昭和六十一年(1986)の白衣大観音建立50周年を記念して、それまでの慈眼院仮本堂を改築しようという話が持ち上がり、たまたまそのことを、当時の橋爪良恒住職が、一路氏の未亡人・千代香さんに話しました。
千代香さんは、一路氏の死後、数多いその遺作の処置に頭を痛めていたこともあって、「本堂の片隅でいいので、一路の遺作を展示する部屋を作って頂けないか。」と仰ったそうです。

話が具体的に進む中で、いっそのこと、一路居士の記念堂のようなものを建てたら、という話になってきました。
しかし千代香さんは、「一路は人目に立つことを好まれる方ではなかった。あまり大仰なことは嫌われるに違いない。」と言って、躊躇されたそうです。

そこで、境内の崖下20mのわずかに開けた窪地という、あまり目立たない場所を選ぶことにしたのだとか。
このことが、建設工事に於いては難渋したものの、現在の「一路堂」の風格を醸し出すところとなった訳です。

一路堂と一路居士「一路堂」建設後しばらくは、一路氏の遺作を展示していましたが、現在は展示されていません。(保存は、慈眼院でしているそうです。)

一路氏の作品がどんなものか見てみたいという方は、高崎市立図書館へ行くと、「一路居士遺墨集」を閲覧することができます。

しかし、高崎の誇るべき「一路堂」、そして一路居士の描いた原作を、ただ眠らせておくのはいかにも勿体ない話です。
もう一度、多くの人に見て頂けるように、常設展示をして頂けないものでしょうか。

(参考図書:「一路居士のこと」)


【一路堂】

【恵徳寺】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:17
Comments(20)観音山
この記事へのコメント
馬場一路氏の石に刻まれた白衣観音像、丸味を帯びてやさし気で、描かれた方のお心が現れているいるように感じられます。
写真の風貌が三島由紀夫を思い出させてくれました。漱石に屋号をもらったなんて・・・すごいエピソードですね。
墓石といい、目立たない場所に建てられたことといい、身近にいた方がいかに一路氏を大切に思っておられたかがわかります。
高崎市の宝のひとつとして、公開していただきたいですね。
金澤屋さんのご紹介映像、“わざっと”見ました^^。「・・高崎町めぐり」まだ何回かあるようなので、実際に見られればいいなァー。
Posted by 風子  at 2010年08月04日 08:50
馬場一郎氏・・・・・

一瞬「三島由紀夫」かと、その風貌に。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月04日 17:26
>風子さん

言われて気付きましたが、たしかに似てますね。
昭和24歳さんも、そう感じたようで。
そうに見ると、芥川龍之介にも似ているような・・・。
やっぱり、人相はその人を表すんでしょうか。
恐い・・・。

ところで、緊急情報を流してみたものの、たしかに“わざっと”でしたね(^^)
やはり思いが入ってないと、あんな作りになるんでしょうか。

ぜひ、この後の城下町めぐりにご参加されることを、お勧めします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月04日 19:51
>昭和24歳さん

似てましたね。
音楽の才能のある昭和24歳さんが、小澤征爾に風貌が似ているのと同じかも知れませんね。

飲み過ぎには、くれぐれもご注意を!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月04日 20:01
>音楽の才能のある昭和24歳さんが

まあ、僕の場合は同じ才能でも「猪口才」の方です(笑)。

クラッシック系の友人にも言われます・・・・

「髪の毛白髪にして、くしゃくしゃにしたらそっくりだって」

まあ、小沢征爾さんですけど高崎には縁が深いはずです、群響がらみの「ここに泉あり」で。
ところで、群響が「仕分け」されちゃってるそうです。

まあ、文化には冷たいところです、商人都市高崎っていうか「鶴舞う形の群馬県」ですけど。
しかしホントに、「鶴が舞っている」形をしていますね。
世界遺産に登録したいくらいです・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月05日 08:38
文化を軽く見ることに
憤りまして、
この4月に群響の後援会に入会しました。
定期演奏会の入場券が14枚(自由席)
きました。
前回の465回、ほぼ満席でした。
ピアノのアリス沙良・オットさん
良かったですよ。
1月に高崎市民文化会館また来るそうです。
チケット買ってしまいました。
裸足のピアニスト、
お奨めです。
Posted by いちじん  at 2010年08月05日 10:47
失礼しました・・・・・

>小沢征爾さんですけど高崎には縁が深いはずです

山本直純さんの間違いでした。

>文化を軽く見ることに
憤りまして、

敬服いたします・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月05日 14:05
>昭和24歳さん

群馬県の形、その昔は「エイ」に例えられていたそうですよ。
「鶴」とは逆に、嬬恋方面を頭、館林方面を尻尾に見立てると、確かに「エイ」です。

そのままだったら、
「エイ泳ぐ姿の群馬県」になってたんでしょうね。

よかった、よかった。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月05日 20:05
>いちじんさん

さすが、行動する文化人・いちじんさんですね。

裸足のピアニストの話、いちじんさんのブログに載ってましたね。

いちじんさんの素敵なブログを知らない方に、そっとお教えしちゃいましょう。
http://kokoronotabi.cocolog-nifty.com/kokoro/2010/07/post-20fa.html

いちじんさんには内緒ですよ。
黙ってて下さいね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月05日 20:10
>昭和24歳さん

そうですね、山本直純さん。
群響の草創期、指揮者だったお父さんの山本直忠さんに連れらて来ていたようですね。

小沢征爾さんも、まんざら群響と縁がない訳でもなく、群響の15周年記念演奏会ではタクトを振っているようですよ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月05日 20:26
>いちじんさん

「いちじんさん」て、木鶏の様な御仁ですね。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月06日 13:51
>昭和24歳さん

とんでもありません。
わたしは木偶です。
いちじんは「一塵」と書きます。
Posted by いちじん  at 2010年08月06日 21:51
迷道院高崎様

いつも楽しく、拝見し勉強させていただいています。
一路堂、最近は中々開かれないのは残念ですね。
一路堂さんの観音像の絹本の掛軸、現在とある
商店のウインドウに展示してあります。
お祭りの時は賑やかな通り沿いですから、お祭り見物の時にでもご覧下さい。
観音様ですので、お盆が終わるまでは掛かって
いる予定です。
場所は、私の名前がヒントです。
Posted by 雀の子  at 2010年08月06日 22:38
>昭和24歳さん&いちじんさん

おふたりとも、博識ですなー。
私は、木魚くらいしか思いつきません。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月06日 23:30
>雀の子さん

いつもご覧頂いて、ありがとうございます!

とある商店のウィンドウですね?
雀の子がヒント・・・。
ははー、探してみます(^^)

「隠居の思ひつ記」読者の方も、ぜひ探してみて下さいね!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月06日 23:31
この度は私の曾祖父のこの様なページを作って下さって有り難う御座います。
私は一路居士の曾孫にあたる者です。
訳有って曾祖父の事を余り知りませんでした。
今回、主のページを拝読致しまして、とても詳しく曾祖父の事を知りました。
とても感謝している次第です。
Posted by 馬場友一  at 2018年07月01日 19:52
>馬場友一様

これは驚きです。
まさか、一路居士の曽孫の方からコメントを頂くとは、夢にも思いませんでした。
文中、何か失礼はなかったかと心配です。

これをご縁に、よろしくお願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2018年07月01日 20:53
〉迷道院高崎様
有り難う御座います。
此方こそ宜しくお願い致します。
Posted by 馬場友一  at 2018年07月01日 21:21
某作家の未亡人が亡くなった為、家財道具全品を廃棄しました。数点を保管したその中に一路居士の書画(掛軸)がありました。
私には価値がわかりませんので、ご希望であれば差し上げます。
どうすれば連絡が取れるのでしょうか?
Posted by 湯前大作  at 2018年07月25日 07:41
>湯前大作様

なんという有難いお話でしょう。

先日も一路居士の曽孫に当たる方からコメントを頂きましたが、つくづくネットによるつながりのすごさに驚いております。

湯前様の目に一路居士の書画が留まり、当ブログにご訪問頂いたというのも、一路居士のお導きのような気が致します。

ご連絡を頂くには、当ブログの「オーナーへメッセージ」機能をご利用ください。
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迷道院高崎 拝
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2018年07月25日 10:09
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