2010年08月01日

念願の一路堂

念願の一路堂「一路堂の門に看板がありましたよ。」と写メを送って頂きました。

「井上房一郎翁忌・記念展」と書いてあります。

普段「一路堂」は一般公開されていません。

中を見られる滅多にないチャンスということで、何はともあれ、早速、出かけてみることにしました。

念願の一路堂行ってみると、普段は閉ざされている引き戸が開いていました。

苔むした階段と坂を、注意深く下りて行くと、「一路堂」の建物が見えてきます。
念願の一路堂

念願の一路堂

念願の一路堂
入り口に掲げられた「一路堂」の額は、円覚寺管長・朝比奈宗源(あさひな・そうげん))老子の筆だそうです。

ネットで調べてみたら、TVドラマ「水戸黄門」の題字も、朝比奈宗源老子の筆だとか。

念願の一路堂
建物の設計者は、あのブルーノタウト「最高の弟子」と言わしめた、高崎の工芸家・水原徳言(みはら・とくげん)翁です。

これも調べてみると、普段私たちがよく目にしているものが、水原徳言翁の作だと知って驚いています。

念願の一路堂左奥の部屋に、今回の「井上房一郎翁忌・記念展」の作品が、展示されていました。

井上房一郎氏については、私如きが改めてご説明するまでもありませんが、高崎白衣大観音を建てた井上保三郎氏の長男です。

房一郎氏はパリに留学して絵画や彫刻を学び、帰国して井上工業に入社してからも、高崎の美術・建築・音楽文化に大いに貢献しました。

房一郎氏に指導を受けた一人に、群馬音楽センターの壁画を手掛けた石沢久夫氏がいますが、その石沢氏が中心となって、毎年開催しているのがこの記念展で、今年が第6回になります。
念願の一路堂
恥ずかしながら、絵画には全く知識を持たないのですが、その私に「おっ!」と思わせるほどのインパクトを与えたのが、小金澤久司さんのこの絵でした。

念願の一路堂
迫力のある絵から、ゴッホ岡本太郎のような方をイメージしますが、とても優しそうな方でした。(写真は、ちょっぴり緊張気味ですが。)

着ているTシャツも、ご自身の絵をプリントしたものだそうで、鞘町「自然工房・花」で取り扱っているそうです。
念願の一路堂
冷たい氷水でもてなして下さった松井次男さんの作品がこちらです。→

夢の中の景色のような、不思議な落ち着きを感じさせてくれる絵だなぁ、と感じました。

他にも、沢山の素敵な絵画が展示されていましたが、視線はついついそれ以外のものに行ってしまいます。

念願の一路堂こういう本があるとは知りませんでした。

田中角栄元首相が、井上工業に住み込みで働いていた時、白衣観音の原形を自転車で運んだというエピソードが載っています。

念願の一路堂念願の一路堂念願の一路堂
井上房一郎氏愛用の帽子

お洒落な手すりお洒落な欄間
念願の一路堂念願の一路堂念願の一路堂
仏壇茶室床の間の
一路居士の書
石庭と石段

念願の「一路堂」の中を見られた喜びで、肝心の「一路堂」の由来について、まったく記すことができませんでした。
次回、改めてお話したいと思います。

【一路堂】





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Posted by 迷道院高崎 at 16:58
Comments(18)観音山
この記事へのコメント
ご無沙汰でーす


先輩、ここは哲学堂だっけ?あそことは違うんでしょ?なんか山っぽいすよね。

俺、房っていう字好きなんです。なんか豊かな感じしますよねー*
Posted by ロシェPaPa  at 2010年08月01日 21:08
>ロシェPaPaさん

こちらこそ、すっかりご無沙汰でm(__)m

えぇ、哲学堂とは違うんです。
観音様の足元ですね。
高崎市民でも、知らない人が結構いるんじゃないかと思います。
そういう私も、この日、初めて中に入ったんですから。

房・・・ですか。
で、豊かな感じ・・・。
ふーむ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月01日 22:17
う~ん、残念。

終わちゃったんですね~。
建物、住居、見たかったな~。

隠士、次回の折には事前のアナウンスをお願いします。高崎、奥が深い・・・。

  夢寅 拝
Posted by 夢寅  at 2010年08月01日 22:23
>夢寅さん

m(__)m

いつか、見学会を申し込んで見ましょうかね。
「幸福になる石段」経由で、「石段の上の隠れ家」で昼食、なんてのもオツでげしょ?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月02日 06:13
慈眼院の境内にこんな素敵な建物があるなんて・・・
慈眼院も観光気分でざっと見ていただけですし、勉強不足を痛感いたしました。
慈眼院のHPなど見ますと、普段公開されているように書かれていますが、やめてしまったのでしょうか。
ぜひ一般公開してほしいですねー。
お庭の雰囲気も、室内の細部の意匠も素晴らしいですね。
設計された水原徳言氏のことも知ることができました。
ありがとうございます^^。
Posted by 風子  at 2010年08月02日 09:00
>風子さん

以前は、一路堂の名の由来になった、馬場一路氏の遺墨を展示していたようなのですが、今は展示されておらず公開もしていません。

今回の催しのように、会場としての利用はできるようですね。
グンブロがーの蓮明さんは、ここでルーシーダットンの教室をやられたようです。
http://renmyou.gunmablog.net/e99017.html
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月02日 09:26
高校時代、高校の正門を入った右手にあった「指月庭」で、薔薇の手入れをされていらっしゃる房一郎さんを時々お見掛けしたことを思い出しました。

やはり、いつも帽子を被られていたと記憶しています。
Posted by キレイズキ  at 2010年08月02日 12:55
哲学堂は行ったのですが、ここは知りませんでした。ぜひ、見学会を計画してください、その時はお伺いいたします
Posted by キューピーキューピー  at 2010年08月02日 17:56
>キレイズキさん

あ、そうだったんですかー。
お忙しい方だったんでしょうに。

帽子は、ベレー帽も展示されてました。
お洒落な紳士だったんでしょうね。
それにしても、生の房一郎さんを見たということは、今となっては貴重ですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月02日 19:24
>キューピーさん

はい、わかりました。
企画してみます。

少しお時間をください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月02日 19:26
迷道院さん、

1975年前後ですから、房一郎さんが70台後半の頃でしょうかね。

母校に対する愛情の厚い方だったようで、県立高校でしたけれど、随分と援助もされていたようです。

指月庭という薔薇園も、井上房一郎さんが作られたものだと思います。
Posted by キレイズキ  at 2010年08月02日 21:47
>キレイズキさん

ほー、いい話ですねー。
「指月庭」という名前も、房一郎さんの命名でしょうか。
教養の深さを感じさせます。

自分の生まれ育った郷土や母校を愛する気持ち、大切なことですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月02日 22:22
高校1年の美術の時間の思い出。
学校に慣れて来た頃でした。
その頃は恒例になっていたようです。
「今日は私に代わって
井上さんが授業してくださるから
よろしく」と言うことで
井上さんの授業を受けたことがあります。
バラの写生をしてアドバイスを受けたり、
パリに留学した時のことを
話してもらったりしたように
記憶していますが、
なにせ1年生でしたので
貴重な時間であるとは露知らず
過ごしていました。
通知表を見たら1964年でした。
Posted by いちじん  at 2010年08月03日 09:17
観音山山中ですか・・・・・

アジトみたいですね(笑)。

哲学堂では、知人の「吉野大作氏」がライブをやったりしてましたけど・・・・・
その「一路堂」も趣はいいですね。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月03日 20:20
>いちじんさん

絵を直接指導して頂いたんですか!
それは、今でも充分自慢できる出来事ですよ。

通知表、みんな取ってあるんですね?
私も、欠落している学年もあるんですが、取ってあります。
小1の時のコメントには、「やや消極的」と書かれていました。
変わってないんですね(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月03日 20:52
>昭和24歳さん

「一路堂」、いいですよ!
観音山のミニ博物館として、もってこいの立地と建造物です。

観光資源として、活かしていきたい財産だと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月03日 20:57
哲学堂で思い出したこと。

昭和40年代後半から50年代の頃、
井上さんが作られた
哲学堂設立準備会(不確か)がありました。
井上さんは多くの文化人を高崎に招き
無料で講演会を開催しました。
私は会員にはなりませんでしたが
しばしば参加しました。

梅原猛氏
数回来られています。隠された十字架を
書かれた頃でした。
私は「話は面白いが、もっと朝鮮半島を含めたアジアの歴史を考慮すべきではないか」と
意見を言った覚えがあります。
これは、私の一方的な思いこみですが
梅原氏はその後、
アジアの歴史を含めた論述を
するようになったように思われます。
先日、梅棹忠夫氏が亡くなられて
新聞で追悼文を書かれています。
その中で、自分が当時の首相に
『国際日本文化研究センター』を創るように
頼んだのでできたのだと
書いていますが、
その二人を取り持ったのが
井上さんではないかと
想像しています。

山本七平氏
「日本人とユダヤ人」の著者は誰か
という話題が沸騰していたときでした。
私は直接、
「著者は山本さん、あなたではないのですか」
と訊きました。
著者と訳者と発行者のことを細かく説明されて
煙に巻かれたことを思い出します。

今西錦司氏
「棲み分け」の理論の今西氏が来高と言うことで
高校で生物の教師をしている友人を
誘って聴きに行ったのですが
話が難解で理解できなかったことを思い出します。

みんな井上さんのポケットマネーで
お呼びしたのでしょう。
若かりし頃、井上さんから多大な恩恵を受けたことを
ここに紹介します。
Posted by いちじん  at 2010年08月06日 23:00
>いちじんさん

うわー、どれもすごい話ですねー。

梅原猛氏や山本七平氏に意見具申とは、並みの人間ではできません。

「日本人とユダヤ人」は、イザヤ・ベンダサンというふざけた名前だったので、私は、遠藤周作氏じゃないかと思ってました。

井上保三郎氏と房一郎氏には、特に高崎市民は感謝しないといけませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月06日 23:53
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