2022年05月28日

号外! 絵葉書になった高崎の明治・大正・昭和

今日からです!
高崎市歴史民俗資料館の企画展「絵葉書になった高崎の明治・大正・昭和」


「高崎唱歌」の風景もありそうで、楽しみ、楽しみ。
行ってみましょう、行ってみましょう!


【高崎市歴史民俗資料館】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年05月21日

「高崎唱歌散歩」始めます

明治四十一年(1908)中央小学校校長・深井小五郎により、市内の名所を織り込んだ「高崎唱歌」というのが創作され、小冊子になっています。


その「高崎唱歌」をもとにした吉永哲郎氏の「高崎唱歌散歩」という文が、昭和五十五年(1980)高崎観光協会発行の「高崎の散歩道 第十二集下」に掲載されています。
それによると、「高崎唱歌」の小冊子は縦10.8cm、横14cm、20頁余で、連雀町の兵用図書日用雑貨の清水商店から発行されたとあります。

滋野金城という人が書いている序文を、一部抜き書きしてみましょう。
世間往々龍動(ロンドン)の月、巴里(パリ)の花あるを知りて我が国に三笠の月吉野の花あるを知らざる者あり、これ遠くに走りて近きを忘れ高きを思ふて卑きを忽(ゆるがせ)にする者とやいはまし」

難しい文ですが、吉永氏が解説してくれています。
まずは自身の土地のことを知ってこそ世間がひらける。足元をよく見ようと、現代の地方の時代の意味の一端を思わせる序文である。」

114年前に書かれた序文ですが、まさに、いま現在の高崎人に突き付けられている命題でもあるように思います。

ということで、次回から「高崎唱歌」の歌詞に沿って、令和の高崎を巡ってみることにいたしましょう。

因みに、吉永氏著「高崎唱歌散歩」の簡易版は、「高崎新聞」のサイトから閲覧できます。



  
タグ :高崎唱歌


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2022年05月14日

号外! 高崎五万石騒動芸能文化祭

5月28日(土)高崎総合福祉センター・たまごホールで、「高崎五万石騒動文化祭」が開催されます。
ぜひ、ぜひ、お出掛け下さいませ。




【たまごホール】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年05月07日

史跡看板散歩-番外編 剣磨石と立石

「権田の七つ石」の内、「鳴石」「イボ石」「腹切り石」「ゆるぎ石」は現物を見ることができ、「ゴンゾウ石」はここにあったという場所を見ることができました。

残るは、あと2つですが。
公民館の塚越さんに頂いた資料には、こう書かれています。
剣磨石
(ケンズリ
 イシ)
剣磨石は権田字滝ノ沢にあります。
昔、竜が昇天する時に、竜の尾剣で石を揉み穿った穴があるといいます。
※現在その所在は不明です。
立石
(タテイシ)
立石は権田字立石原にあります。柱状の大きな石が立っていることから起こりました。
この石から立石原という地名になりました。
※よく目立つ石であったため、榛名古道の道しるべの一つになっていたと考えられます。
現在は周囲の樹木が大きくなってしまったため、遠くから見ることができません。

「剣磨石」は所在不明、「立石」は見ることができないと書いてあります。

ところが塚越さんによると、その二つの石を見たことがあるという人がいるというのです。
「鳴石」集落にお住いの戸塚さんという方だというので、さっそく訪ねてみました。

戸塚さんのお話では、自宅のすぐ下を流れる「至り沢」に、てっぺんに穴が開いている大きな石があるといいます。
「滝ノ沢」でなく、「至り沢」ですか。
戸塚さん自身も、「それが剣磨石かどうかは分からないが」とは仰るのですが。
近くだというので行ってみようと思いましたが、けっこう深い沢で、電気柵が張り巡らされていたので諦めました。

後日、地図を持って再訪し、この辺だという場所を教えて頂きました。


残る一つ、「立石」ですが、戸塚さんのお話からすると、相当な山の中らしいです。
何度もその辺の山へ猪狩りに行っていた戸塚さんも、木々の葉が茂っている時は気付かなかったと言います。
ここも、地図上でこの辺だという場所を教えてもらいました。


若い時なら、すぐにでも探しに行くところですが、今はちょっと自信がありません。
このブログを見た人で、見つけたよという人は、ぜひご一報を。
ただ、猪が出没するらしいので、くれぐれも気をつけて頂きますように。

さて、これで曲がりなりにも「権田の七つ石」を調べることができたのですが、もうひとつ、「七つ石」になくて「五名石」に入っている、「夫婦石」(めおといし)というのがあるんです。
でも・・・、
夫婦石は権田字至り沢にあります。大きな石が重なり合っていることから、この名前で呼ばれました。
※至沢川の河川工事で失われてしまいました。」
ということで、もう無くなっちゃったようです。

そこで、権田ではないのですが、別の「夫婦石」をご紹介しましょう。
場所は、「落合の双体道祖神」のすぐ上です。



ふ~ん、なるほどね。


2016年5月からスタートした「史跡看板散歩」シリーズは、今回を以て完結といたします。
長い間お付き合い頂いた読者の皆様方に、厚く御礼申し上げます。
このあと、どんなシリーズにするか只今思案中であります。
始まりましたら、またよろしくお願い申し上げます。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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