2022年02月26日

史跡看板散歩-番外編 権田の七つ石

「鳴石」の史跡看板に書かれていた「権田の七つ石」
どんな石なんでしょう。

「新編倉渕村誌 第三巻民俗編」を見てみると、「七つ石」でなくて「五名石」となっていました。
あれ?

双方を並べて見ると、こうです。
【七つ石】 【五名石】
・鳴石 ・鳴石
・揺ぎ石 ・動石(ゆるぎいし)
・ケンズリ石 ・剣磨石(けんずりいし)
・立て石 ・立石
・夫婦石(めおといし)
・イボ石
・腹切り石
・ゴンゾウ石
共通しているのが4つ、してないのが4つ。
ということは、ほんとは「権田八石」なんでしょうかね。

「村誌」には、「五名石」についてこう書かれています。
鳴石 大きさ四メートルほどの巨岩で、軽く打つと鐘のような音がするので、鳴石というようになったとか。
動石 小倉にあり、大きな石であるが、少しの力でもよく揺るぐといいます。
剣磨石 字滝ノ沢にあり、昔、竜が天に昇るとき、尾剣で石を揉み穿ったという穴があるので、この名がつきました。
立石 立石原にあり、柱のような大きな岩石で、この名前がついたといいます。
夫婦石 至沢にある石で、大きな石が二つ重なりあっていることから、この名がついたとか。

「五名石」の場所は、字名では分かるのですが・・・。

ピンポイントで分かりません。

「七つ石」のひとつ「腹切り石」は、別の項に記載がありました。
  むかし、塚越下総守と言う人が大明神山に城を築こうとして、川浦の三沢にカラボリを掘りました。しかし、堀の工事が未完成のうちに敵に攻められてしまいました。
下総守はあわてて馬に乗ったまま、大明神山という岩山の砦から飛び下り、切腹して果てました。
その石が今でも烏川河岸にあって、馬のひづめと刀の跡が残っています。
これも、「大明神山下の烏川河岸」にある、ということしか分かりません。

「イボ石」「ゴンゾウ石」に至っては、名前すら出てきません。

こりゃ、地元の人に聞いてみないと、どうにもならなそうですな。



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Posted by 迷道院高崎at 07:00
Comments(0)高崎市名所旧跡案内板

2022年02月12日

史跡看板散歩-235 鳴石(なるいし)

ついに、最後の「高崎市名所旧跡案内板」を訪ねます。

権田の信号から中之条方面へ180mほど行くと、群バスの「権田車庫」があります。


その脇の道を、ひたすら、ただひたすら道なりに4.5kmほど行くと、左側に「拓魂之碑」というのが建っている小さな十字路があります。


右角には、「鳴石 60m」という案内板が建っています。


矢印に従って行くと、遊具の奥にそれらしい大石と史跡看板がありました。




「鳴石」という名称の由来は、倉渕支所発行の「くらぶち みどころマップ」によると、「大きな石の中が空洞の部分が多いため、軽く叩いてもコーンと響くことから」ということです。

そのためでしょうか、「鳴石」の上には「これで叩いて」というように、手ごろな石が3個置いてあります。



どんな音がするのか、叩いてみました。


叩く場所によって、いろんな音になります。
パーカッションのプロにでも叩いてもらったら、面白いかも知れませんね。

それにしても、眺めのいい場所です。



古代、ここが祭祀の場になったというのも納得ですね。


この石があることで、地名も「鳴石」と呼ばれたようですが、この地が開拓されたのはつい最近のことでした。


「拓魂之碑」に、こう刻まれています。
昭和二十年 敗戦という我が国未曽有の事態が諸物資の窮乏を招き 中でも食糧不足は極限に達した 国は食料事情打開策の一環として緊急開拓を国策事業とした
昭和二十一年十二月二日 吾等十三名はこの地鳴石を墳墓の地と定め勇躍入植し 一致団結理想郷建設のため努力邁進してきた」

さて、「高崎市名所旧跡案内板」251基、これで全て廻り切りました。

ただ、最後の看板に書いてある「権田七つ石」というのが、どうにも気になる。
どうしたもんかなぁ・・・。


【鳴石】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:00
Comments(2)高崎市名所旧跡案内板

2022年02月05日

隠居の独り言 春とは名のみの・・・

大寒が過ぎ、節分も過ぎて、春になった。

七十二侯では「東風解凍」(東風 凍りを解く)

でも、まだ寒いよなぁ。


三番の歌詞は、
春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か


  


Posted by 迷道院高崎at 19:00
Comments(0)◆私事雑感