2021年04月11日

史跡看板散歩-224 弘法の石芋

下室田宮谷戸「諏訪神社」から、国道406号を渡って南へ入ります。



一面の田園風景の中を280mほど行って、右へ入ります。


少し行くと、宮谷戸の簡易水道施設があります。



そのフェンスに沿って進んで行くと、お堂の建つ一角に行きつきます。


小さいながらも形の良い立派なお堂で、扁額には「弘法大師」とあります。


史跡看板の標題は、「弘法の石芋」

なかなか面白い伝説です。

これと同じような話は日本各地にあるようで、「まんが日本昔ばなし」では、神奈川県(やどろぎ)に伝わる「お夏石」という話になっています。

「石芋」にした僧も各地まちまちで、上の動画では単に「旅の僧」ですし、埼玉県戸田の話では日蓮上人になっています。
ここ室田でも、「弘法の石芋」と言いながら、看板の文は「弘法大師(またはきっと弘法大師のような偉いお坊さん)」と、ちょっぴり及び腰です。

「室田町誌」には、その僧は寂然(じゃくぜん)律師だという説も。
なお承久年間(1219-21)寂然律師が諸国行脚の末、地蔵尊を背負って室田の地を訪ね、宮谷戸の地に草庵を結んで村人の病気を癒していました。
律師歿後律師の背負ってきた地蔵尊を本尊に小堂を建てましたが、後、草庵に近い真福寺に移し、真福寺が武田信玄鷹留城攻略の折、兵火に焼けてからは、再び小堂に安置し、その後現在地に移したそうです。
従って、石芋伝説の弘法大師は寂然律師のまちがいとも言われます。」

寂然律師唯心房寂然と号した歌人ですが、もともとは貴族で藤原頼業(よりなり)といい、従五位下壱岐守に任ぜられながらこれを辞退して出家したという人です。
出家後は京都大原に隠棲したとなっているんですが、その人が室田宮谷戸にねぇ。
さて、どうなんでしょう。

看板の冒頭、「堂には、弘法大師作と伝わる地蔵尊と、川からあげたという大師像が安置されている」と書かれています。
どれ、覗いてみましょう。

あれ?三体ありますよ。
どれがどれなんでしょう。

「榛名町誌民俗編」に、ヒントがありました。
室田地区には『室田二十一大師』といって、弘法大師の座像二十一体を二十一ヵ所の寺やお堂に祀り、それをお参りするとご利益があるという大師めぐりがあった。
これは、資料によれば『室田二十一大師、開山、権大僧都阿闍梨法印賢清、足門村徳正寺十九世住僧、文政十亥年三月三十日遷化、当所中町産』とあるところから、『室田二十一大師』を開いたのは足門の徳昌寺の十九世住職であった賢清ということがわかった。(略)
当所中町産とあるので、賢清は室田宿中町の生まれであることも判明した。(略)
これら寺院、堂宇などの中には、すでに廃寺になったものやお堂としての機能を失ったものなどがあり、二十一大師そのものの存在が確認できなくなってしまったものも少なくない。
それらの中で確認できた大師像は、座像で、すべて椅子に坐した同じ姿に造られている。」

ということですから、堂内の一番右端が「二十一大師」なんでしょう。
一番左端の線刻で描かれているのも弘法大師ですから、残る真ん中のが「弘法大師作と伝わる地蔵尊」ということになります。
さきの「室田町誌」の記述と併せると、寂然律師が背負ってきたという「地蔵尊」がこれなんでしょうか。
だとしたら、力持ちだったんですね、寂然律師って。

で、「石芋」ですが。
看板に「お堂東の堀に『弘法の石芋』という里芋が生えている」とあります。
これが、その堀かな?


葉っぱが無いので分かりにくいのですが、たしかに里芋のようなのがありました。

でも、なんか、普段見慣れている里芋とは違うような・・・。

「室田町誌」では、看板とちょっと違う書き方になっています。
堂の附近は湿地帯で、弘法の石芋とよぶ里芋に似た植物が群生しています。」
里芋なんでしょうか、里芋じゃないんでしょうか。

辞書で「石芋」を引くと、「不食芋」(くわずいも)というのも出てきます。
これが、食中毒までおこす、まさに食えない芋でした。

詳しくはこちらから

里芋を「不食芋」に変えられちゃったら、堪ったもんじゃないですね。
いやぁ、食い物の恨みってのは恐ろしいもんですなぁ。


【宮谷戸の弘法大師堂】


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Posted by 迷道院高崎at 07:53
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2021年04月04日

史跡看板散歩-223 下室田の諏訪神社

国道406号線の宮谷戸(みやがいと)バス停の北に、「諏訪神社」があります。


史跡看板は、鳥居の右に建っています。



元は「八幡宮」だったんですね。
「諏訪神社」の石段前をぐるっと右へ回ると石段があって、「八幡宮」の鳥居を潜って境内へ上ることもできます。



この八幡宮は、「上野国の守護安達九郎(安達藤九郎?)盛長が祀らせたと伝わっている」と看板にあります。

「大森神社」社記の中には、こう書いてあるそうです。
古書にいう、そもそも、ここに八幡宮の創立あるものは、往昔、建久六年(1195)の頃とかや、右大将源頼朝の三原に狩あるの途上、安らひ玉ひし地なるにより、管領藤九郎盛長の令に任せ、尊き鶴岡の宮の分霊を遷し祀れるものなり」
(榛名町誌民俗編)
安達盛長に祀らせたのは、源頼朝だったという訳です。
頼朝が三原の巻狩に出掛けたのは建久四年(1193)で、その帰リ道に室田を通って、ここで休憩したのでしょう。


その「八幡宮」の境内に「諏訪神社」を祀ったのは、武田信玄配下の内藤修理亮だと看板に書いてあります。



「室田町誌」には、こんなことも書いてあります。
武田、長野両氏の連年の攻防戦によって、社殿も戦災をうけたので、武田氏が、西上州を治めることになったとき、信玄は、報賽の心から、八幡宮の境内地に遷座し奉ったのが今の諏訪明神であるという。」

箕輪落城の永禄九年(1566)に「諏訪神社」の社家となったのが、弘治四年(1558)に備前から来て上州に住していた大澤内記藤原貞友でした。
その後、大澤家は代々「諏訪神社」に仕える家柄となります。

「諏訪神社」の東にある「宮谷戸住民センター」の脇に、「大澤呈延碑」という大きな石碑が建っています。


大澤呈延貞友の五世孫であると、碑に刻まれています。
呈延は文化八年(1811)生まれ、小笠原流礼式や関流の和算を習得し、三十歳頃「森下塾」という私塾を開きました。
弟子は近隣の子弟に限らず、安中、高崎、三ノ倉など広範にわたり、数千名に及んだといいます。
明治十五年(1882)七十二歳で歿し、明治四十四年(1911)子孫と門人達によって生家跡に建立されたのが、「大澤呈延碑」です。(榛名町誌通史編下)

看板の後半に、「現在諏訪の原という地名が残っていて、そこから遷座したのが今の諏訪神社だ」と書いてあります。
その「諏訪の原」下室田にあるのかと思ったのですが、なんと上里見にありました。


「榛名町誌通史編上」には、こんな記述があります。
『上野国郡村誌』群馬郡・碓氷郡によると、榛名町には本郷・三ツ子沢・十文字・下室田(二社)・上室田・下里見(二社)・中里見・上里見(二社)など十一社が見える。
これらのうち、下室田・上里見の諏訪神社については武田信玄の箕輪城攻略によって勧請されたという伝承を持つ。
諏訪を崇敬した信玄が支配地に諏訪神社を祀らせたことは否定できないが、それ以前から諏訪信仰が当地に広がっていた可能性は高い。
諏訪神は農業神であるとともに狩猟神・軍神であり、山地が多い榛名町域では狩猟民や武士団に信仰されたと考えられる。(略)
なお、十文字に諏訪原・諏訪谷、下里見に諏訪山、上里見に諏訪ノ原などの字名がみえ、これらは中世に遡る可能性が高い。」

長くなってしまいましたが最後に、「宮谷戸」(みやがいと)という字名についてです。
「谷戸」は、「がいと」「やと」などと呼ばれ、丘陵地や台地が湧き水や水の流れによって浸食され、浅い谷となって樹枝状に刻まれている地形のことだそうです。
たしかに、上空から見るとそういう地形です。

「宮」のある「谷戸」だから、「宮谷戸」なんですね。

因みに、下里見「郷見神社」があるのは「諏訪山」で、その近くにも「宮谷戸」という字があります。


いろいろ勉強になった、下室田宮谷戸「諏訪神社」でした。


【諏訪神社】

【大澤呈延碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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