2021年02月21日

史跡看板散歩-220 下室田の松仙寺跡

「松山城本丸跡」から「松仙寺跡」を目指します。


いったん、「松山城跡」の史跡看板の所まで下ります。


看板の反対側に小屋が建っています。


小屋は地蔵堂で、中にはとても優しい笑顔のお地蔵様がいらっしゃいました。
寄贈したのは中島さんという方ですけど、もしかしてお代官様のご子孫?


地蔵堂の後ろの小道をしばらく行くと、急に開けます。


ここが「松仙寺」の跡で、大きな桜の古木の下に史跡看板が建っています。

なぜか汚れてました。


「室田町誌」によると、里見氏時代の「松仙寺」は現在地より西方約1kmの「常楽外戸」(じょうらく・がいと)という所にあって、「常楽院」と称したとあります。
松山城主・上田氏の祈願寺となったのは天正十五年(1587)、現在地に移されたのは正徳三年(1713)で、往時は「松山寺」と書いたようです。

看板に、「松仙寺」の鐘の音が「室田八景」のひとつになっていたと書いてあります。
「室田八景」は、中室田の新井三光という人の幕末頃の作で、風景画に和歌を付したものだそうです。
その中に、「松山の晩鐘」というのがあり、こう詠まれています。
「手をのばし 足をのばして 寺子らが
         暮れ松山の 入相のかね」


その他の七景も記しておきましょう。
門前の晴嵐
(長年寺?)
かささぎの はしもくずれて あかつきは
  見晴らしひろき 寺の門前
烏川の漁火 からす川 なみにうつれる いさり火は
  雲のひまもる 月の影かも
滝の涼風
(瀧不動?)
木かくれて 噂すれども あつき日の
  影だにささぬ 瀧の涼しや
大森の夜雨
(大森神社)
御百度の 願もみつれば よる更けて
  雨にちらつく あかつきの露
屏風丘の夕照
(湯殿山?)
くれないの 屏風が岡の 夕顔は
  ☐☐たも およばさりけり
天狗山の暮雪 ひさかたの 空にのこりし 天狗山
  気色もすこき 雪の夕ぐれ
岩井堂の秋月 たわふれて 岩井に月の あたりけむ
  くだけて影の あちこちにさす

「松山の晩鐘」の歌にも「寺子」という言葉が入っていますが、看板にも「寺子屋」のことや、「筆子」の文字がある「無縫塔」があると書いてあります。

「榛名町誌通史編下巻」によると、歴代住職の無縫塔の中で、法印快通法印快山のものに「筆子」の文字が刻まれているというので探してみました。

北東の奥に、寺があった頃のものらしい古い石碑や墓石が並んでいる一角があります。


その中に、「法印快山大覺位」という「無縫塔」がありました。
たしかに「筆子三拾七人 取子拾三人」と刻まれています。

天保八年(1837)の建立です。

ただ、快通さんのが見当たりません。
ずーっと探しながら行くと、一番奥の高台にいくつかの無縫塔が見えたので、上がってみました。


端から見ていきましたが、快通さんのはありません。
諦めかけた頃、台石から転げ落ちている無縫塔に「筆子三拾四人 取子四人敬白」という文字を見つけました。
苔を削り取ると、「大阿闍梨法印快通 和尚位」と読み取れます。
第廿一世のご住職なんですね。ということは、快山住職は第二十世なのかな。

「榛名町誌」によると、享和三年(1803)の建立だそうです。
地元の皆さん、台の上に戻してあげて下さい。

ところで、「筆子」は寺子屋の生徒のことですが、「取子」というのは何なんでしょう。
調べてみると、「取子」「とりこ」とか「とりご」と読むようで、産まれてきた子どもが虚弱体質だったような場合、いったん社寺の門前などに捨てて神官や僧侶に拾ってもらい、それをまた養子として貰い受けて育てるという習俗があったんだそうです。
そうすることによって、神仏からの貰い児なので丈夫に育つからということらしいです。
初めて知りました。

「松仙寺跡」からの眺望は素晴らしく、「大福寺」「堀之内」もよく見えます。


桜の咲くころ、もう一度来てみたくなった「松山城址」界隈でした。


【松仙寺跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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