2021年01月31日

史跡看板散歩-217 下室田の矢背負稲荷大明神

今回の場所も分かりづらいです。
県道29号(あら町-下室田線)から下室田小学校西側の道を、北へ北へと道なりに行ってください。

500mほど行くと、道端にこんな道標が建ってます。

「城山矢背負稲荷神」と刻まれてますが、多分その下に「社」の字もあるのでしょう。
実はこの道標、「大福塚」の捜索にご協力いただいた、宮下喜好さんに教えてもらいました。

そこから、さらに300mほど行くと、道が二股に分かれていますが、左の方へ行きます。


熊が出るらしいです。


あとは一本道なんですが、途中からどんどん道が細くなってきて、このまま行くとUターンできなくなりそうな気がして、くぼみに車を停めて歩くことにしました。


息を上げながら坂を上って行ったら、何と!駐車場があるじゃありませんか。
車を取りに戻って、駐車場に停め直しました。

書いといてくれよ、「上に駐車場あります」って。

これは一の鳥居らしく、この先にはまだ急坂が続いています。
どこにあるんだ、神社は。


ようやく二の鳥居と石段、その上の社殿が見えてきました。


けっこう急な石段です。


狛狐さんは、誰かにマスクをしてもらったようです。

「コン、コン」って、咳してると思ったんですかね。

史跡看板は、社殿の前に建っています。

ふり仮名が振ってありませんが、「矢背負」「やせおい」と読みます。
麓から歩いて上って来る人は、「やせるおもい」でしょう。

看板によると、「矢背負稲荷神社」の由緒には二説あるようですね。
ひとつは、鷹留城が武田勢に攻撃された時、霧で覆って武田勢を惑わせたが、流れ矢に当たって死んでしまった白狐を祀ったというもの。
もうひとつは、里見義利が夢で見たのと同じ、矢を背負っていた白狐を祀ったというものです。

どちらの説も下室田町にある「大森神社」の縁起にある話で、時代的にどちらの話が古いかというと、後者の方です。
里見義利という人は、生年は分からないのですが歿年は平安時代末期の嘉応二年(1170)です。

一方前者の話は天文年間(1532-1555)で、鷹留城主・長野業氏が遷して祀ったというものです。
當社ハ元地ニ在リタルモノ 天文年間 長野業氏遷シ祀ル
永禄六年鷹留落城後 コノ社傍ニ 白狐ノ矢ニ中リテ落命シ在ルヲ発見シ 里人稲荷ノ神使ノ霊現ニテ 敵ヲ五日平ニ彷徨セシメタルモノト崇信シ 矢背負稲荷大明神ト崇メ奉ルト言傳フル説アリ」
現在は永禄九年(1566)とする説が主流。

この縁起の中に「五日平」というのが出てきますが、これは武田勢が鷹留城攻略の際に陣を張った場所のことです。
「室田町誌」に、こう書かれています。
中室田大久保台地に「五日平」という、東南に少し傾斜した一ヘクタール余の畑地があります。
永禄年間(1558-69)西毛制圧を志した武田信玄は、幾度か西毛の中心箕輪、鷹留城に来攻していますが、永禄六年(1563)二月には大軍を率いて松枝、安中、小幡等の諸城を攻略、鷹留箕輪城に攻めよせてきました。
箕輪、鷹留の長野氏はこゝを先途と頑強に城を守り、勝敗は容易に決しませんでした。
手をやいた武田勢は窮余の妙計として持久戦を覚悟、水路の遮断にとりかゝりました。
ところがたまたま濃霧が襲来、進退を失い、この台上に釘づけとなって城と対峙すること五日間、その後霧が晴れて水路切断に成功、一方城内に内通する者も出て、鷹留城は玉砕同様に落城しました。
そこで五日平とか、武田信玄五日の陣所等と呼ぶようになりました。」

これらの話に出てくる場所を地図に落とすと、こんな感じになります。


毎年二月十一日の初午祭では、参拝者に陶器の狐が授けられるとか。
前年に授けられた狐は返すのだそうですが、参道のあちこちに置かれているのがそれなんでしょうか。


お稲荷様の霊力を以ちまして、コロナの災厄を祓え給い、清め給え。


【矢背負稲荷神社道標】

【矢背負稲荷神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:01
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2021年01月24日

史跡看板散歩-216 下室田大福寺の庚申塔

榛名消防団第四分団脇を入ったどん突きが、「大福寺」です。



史跡看板は、この寺に建つ三基の「庚申塔」について書かれています。


その三基の「庚申塔」がこれらです。




う~ん。
何か物足らないので、「大福寺」について調べてみました。
「榛名町誌 通史編下」に、こう書かれています。
上町の天台宗大福寺は中里見光明寺末、本尊は阿弥陀如来である。
寺記によれば、貞和三年(1347)に里見兵庫頭が再興した。
中興の開山は僧円覚である。
永正八年(1511)、住職光海の時に長野憲業(鷹留城主)が寺領として六貫五百文を寄進している。
同十八年、兵火により全焼した。」

う~~ん。
まだ物足らなくて、「室田町誌」も見てみました。
すると、興味深いことが書いてあるじゃありませんか。
二十三世正観上人の代、寛文年間(1661-1672)檀徒二百戸あまり、名主某のために、長年寺に転帰するという事件がもちあがり、このため上人は江戸へ訴えたが敗れ、憤懣断食をして死に、遺言して根古屋山上に葬らしめたという。
これを大福塚という。
(口碑伝説の項参照)」
寛永年間(1624-1643)の誤りか?

その口碑伝説の項には、こう書かれています。
下室田根古屋と駒寄との境界となっている丘陵に、松の大木が二本みえます(方角により一本となるので、おばけ松などと子供たちが言ってます)が、この根方を大福塚と呼んでいます。
この塚には次のような伝承があります。
寛永年間室田村内の大福寺、松仙寺、吉祥寺、医王寺、無量院等の諸寺の檀徒が、大量長年寺檀中に転帰した事件がありました。
各寺の住職は、これは名主中島某(一本長兵衛)が圧力を加えて自らの檀中(長年寺)に引き入れたものと考え、寺社奉行まで訴訟し、敗訴となっています。
その時大福寺住職正観和尚は憤懣の余り、三七日の断食苦行の末、怨敵滅亡を祈願して、臨終の時「愚僧死すとも瞑目する能わず、屍は必ず南面させて根古屋山上に葬れ。彼ら寺敵を睨み倒し、しかも子孫を断たざればおかじ」と遺言。
墓に入ってからも竹筒で水をささせ、生きている間は鈴を合図にならすと言って死んで行きました。」

「大福寺」の住職が檀徒を引き抜かれた恨みから、死して山上の「大福塚」から敵を睨み倒しているというのです。
「大福塚」へ行ってみたくて仕方なくなりました。

「大福寺」でお聞きすれば分かると思ったのですが、どうやらここは無住寺のようです。
ご近所の方にお聞きしましたが、「大福塚?聞いたことないねぇ。」と言います。
しかたなく、「室田町誌」に書かれている「下室田根古屋と駒寄との境界」、「松の大木が二本」、「南面させて根古屋山上に」という記述を頼りに歩き始めましたが、この辺りどこを見ても山だらけで皆目見当がつきません。


困っていると、一軒の民家のお庭に人の姿を見つけました。
急いで声をお掛けして、「この辺に、大福塚というのがありますか?」とお尋ねすると、何と!ご存知でした。
お父様からそういうものがあるとは聞いていて、場所も大体分かるけれども、実際に見たことはないということでした。
しかも、道は藪になってて行けないんじゃないかと言います。

ところが何と!「私も興味があるから、一緒に行ってみましょう。」と、仰ってくれました。
車の助手席に乗せて頂きけっこうな距離を走って、尾根の西側登り口へやって来ました。
車を停めて急坂を登り、やや平坦な場所に出ましたが、そこで藪に阻まれ、それ以上進むことはできません。

すると、「フルーツラインの方からなら行けるかも知れない。」と、また車でぐるーっと回って下さいました。
そして入って行ったのは、「下村浄水場」の脇道でした。


500mほど行くと、右側が広場のようになっています。


松ではありませんが、大木が二本立っています。

近くに車を止めて広場に入って行くと、二本の大木の間の灌木の陰に、小さな石碑を見つけました。


前に回ると、「秀巌山二十三世 正観上人之墓」と刻まれています。

間違いありません、これが「大福塚」です。
二人して大喜びしました。

案内して頂かなかったら、絶対に辿り着けなかったでしょう。
ありがとうございました。
奇跡的な出会いをしたこの方は、宮下喜好さんと仰います。
城郭、特に山城に興味を持っていらっしゃるそうで、この辺の歴史にも大変詳しいお方でした。
「大福塚」は、地元では「だいくづか」と呼んでたそうで、初めて「だいふくづか」と分かったと喜んでらっしゃいました。

さて、「大福塚」騒動の発端となった名主・中島某の起した檀徒引き抜きの件ですが、その顛末を記した古文書が中島雅雄氏家で発見され、昭和二十八年(1953)の新聞紙上にその調査結果が掲載されます。


この新聞記事を読んで、おや?と思うところがあります。
終盤の辺りの、こんな記述です。
なお、裏書に寺社奉行の長左衛門(室田町誌では長兵衛)に対する呼び出し状があり、出張しなければ投獄するとあるところをみると、この裁判は多分真言、天台側の勝訴に終わったのであろう。」

ん?「大福塚」の伝説とは訴訟の結果が真逆です。
はて、どちらが本当なんでしょう。

新しく建て直されたという現在の「正観上人之墓」も、「長年寺」の方角ではなく、遠く雪を頂く浅間山を望んでいます。


いまだに謎が残る「大福塚」でした。


【大福寺】

【大福塚】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:54
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2021年01月17日

史跡看板散歩-215 下室田の庚申山

今回の史跡は、分かりにくい場所にあります。

烏川に沿って走る県道29号線(あら町-下室田線)、下村の信号を北に入り1kmほど行くと、ヘアピンカーブに差し掛かります。
そこを左、「大世神山」「サンコーハルナパーク」方面に入ります。


そこから、さらに600mほど行くと、右に入る道がありますので、そこを曲がります。


曲がるとすぐに携帯基地局のアンテナが建つヘアピンカーブがあって、そのカーブの先に、右手前に鋭角で入る坂道があります。



細い坂道を300mほど上ると、右側のガードレールが切れている所に、何やら木札が建っています。


木札には手書きで「史跡 お庚申様 この下30m」と書いてあります。

ここを下っていくようですが、手書きの木札が無かったら道があるとは気付きもしなかったでしょう。
地元の方の心配りを嬉しく思う反面、名所旧跡案内板を設置した市役所の心配りの不足を悲しく思います。

けっこうな急坂で、落ち葉が降り積もっていて滑りやすいので、ストック2本を突っ張りながら慎重に下って行きます。
しばらく下ると、左下に大きな石が見えます。


急坂はまだずっと先まで続いていますが、鋭角に左手前に入ると大石と史跡看板があります。



ほー、なるほど、面白い話ですね。

行者のお告げで掘り出した石には、月と太陽、庚申という文字が彫ってあったというんですが、よく見ないと分からないくらいの線刻彫りです。


お正月には、きちんとお供えをしてお祭りしたようです。


地元の方のお話では、この急坂の山道は昔は日常的に使っていた道だそうです。
たしかに、この急勾配では人や牛馬も転倒するでしょう。
ただ、「庚申塔」が、こんな山道の途中の道端に埋まっていたというのは、ちょっと不思議です。

この「庚申塔」、もとは坂道の上の村の入口に建ってた「賽の神」なんじゃないでしょうか。
それが、土砂崩れか何かで下に転げ落ち、土に埋まっていつしか忘れられていたのでしょう。
災いが続くので、「そう言えば・・・」と思い出したのが、村の行者だったのかもしれません。

その石を掘り出す様子を描いたという絵馬が見たくなって、「諏訪神社」へ行ってみました。



拝殿の中に、その絵馬が飾ってありました。

石を引く人々の周りを、白狐が跳ね回っているようですね。

これからも、永く語り伝えていって欲しいものです。


【庚申塔入口】

【諏訪神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2021年01月10日

史跡看板散歩-214 丸山公園の庚申堂と弘法大師堂

上里見町の国道460号線沿いに、「三共クリーニング店」というのがあります。

その脇の道を南に入って行きます。

180mほど行くと、左に入る細い道があります。


その細道の先はえらい急坂で、空中へ飛び出してしまいそうです。


車が仰向けにひっくり返ってしまいそうな恐怖を覚えながら無事上りあげて、振り返って見るとけっこうな眺めです。


その急坂の上が「丸山公園」です。



この看板の文章、意外と分かりずらいです。
時系列的に整理すると、こういうことらしいです。
ここは昔「雷電神社」だった。
明治二十九年に「蚕影山大神」(絹笠様)を祀った。
青面金剛を祀った「庚申堂」があったが、大正初めに取り壊した。
昭和八年に「庚申堂」を再建した。
昭和十四年に弘法大師像を安置した。
平成十七年に堂宇を新築し「弘法大師堂」とした。
旧「庚申堂」は、移設して「山車倉庫」として使っている。

文久四年(1864)銘のある鳥居を潜って石段を上ると、「蠶(蚕)影山大神」の大きな石碑が建っています。


その左、一段下がった所にあるのが「弘法大師堂」です。

右脇に建つ「弘法大師碑」は昭和八年の銘があるので、「庚申堂」を再建した時に建てられたものでしょう。
碑面には「四國 八十八ヶ所ノ内 弘法大師」と刻まれているのですが、「八十八ヶ所ノ内」とはどういう意味なんでしょう。
ご存知の方、ご教示ください。

ところで昨年の流行語大賞は、コピーライターの小池百合子氏が広めた「3密」でしたが、実はそれより1200年も前に「三密」という言葉を広めていたのが、弘法大師でした。

「3密」は人と人とを近づけないための言葉ですが、「三密」の方は人と仏様を近づけるための言葉です。
身密(しんみつ) 手や指で印を結び仏さまの姿をまねる
口密(くみつ) 口で仏さまの言葉である真言を唱える
意密(いみつ) 心に仏さまの姿を描き瞑想する
(茨城県筑西市 東睿山 金剛寿院 千妙寺のHPより)

閑話休題。

「弘法大師堂」の後ろに、大きな東屋が建っています。


その西側に、お堂の瓦屋根が見えます。

これが、「山車倉庫」になった旧「庚申堂」なのでしょう。

下へ降りて正面から見ると、こんなです。


下へ降りたついでに、東側へ回って「丸山公園」を見てみると、なるほど「丸山」だなと気付きました。


榛名町役場著「榛名町の文化財」に、「上里見藩邸跡」として「丸山公園」の写真が使われています。


と言っても、「丸山公園」「上里見藩邸(神山陣屋)跡」ということではなさそうで、場所については、こう書かれています。
城地は字町南から八幡にかけての一帯にわたり、附属建物は町西、町東に及んでいたようである。
字町通り七四一、七四二番地附近が大手口、陣屋跡は東西五十間(約十五メートル)、南北四十間(約十二メートル)、これを中心に附属建物があったようである。
西に離御殿(後に城代家老居住)、竜門寺(菩提寺、黄檗宗)南に倉庫、八幡神社(守護神、石祠現存)、東南に的場、東に道場、北に武家屋敷・・・」

これだけではよく分からなかったのですが、「里見町誌」「城下町の神山宿」という絵図があり、そこに「陣屋」等の位置が描かれていました。


これらを踏まえて「742番地」を目安に現在の地図を眺めてみると、おおよその位置関係が分かります。


この2つを見比べると、どうやら現在の「丸山公園」は、神山宿絵図に描かれている「八幡神社」のあった所のように見えます。

いつの時代も、人は高い所に神秘的な力を求めるものなのでしょうね。


【丸山公園】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2021年01月03日

史跡看板散歩-213 上里見町田中の道祖神

すっかりご無沙汰している間に、年が改まってしまいました。
3ヶ月ぶりの「隠居の思ひつ記」です。

再開第一回は、里見小学校裏の三叉路に祀られている道祖神です。


「田中の道祖神」と呼ばれているようですが、見た目は「檻中の道祖神」です。



延宝四年(1676)の銘があって町内最古の道祖神らしいですが、県内最古のものは倉渕村権田の寛永二年(1625)だそうです。
近藤義雄氏著「上州の神と仏」によると、道祖神の建立時期は四期に大別されるといいます。
第一期は寛永(1624-)~元禄(-1704)期としています。
とすると、「田中の道祖神」はちょうど一期のど真ん中ということになります。

同著によると、この時期の道祖神の特徴はこうだそうです。
自然石を建てて道祖神として祀ってきたが、近世初期から様々な石像が出現してきたとき、道祖神も神仏の姿をした像が求められたのであろう。
そのため、二神とも仏像や神官の姿、ときには三月の節供に飾られる座り雛の形をしたものなどである。
前記倉渕村の県内最古の道祖神は、二神とも地蔵像の合掌した姿である。」

ん?「田中の道祖神」は、その特徴に当てはまらないような気がするんですが、どうなんでしょう。

風化が進んでいるのではっきりしませんが、肩を組んで手を握り合っているように見えます。

第二期の特徴を見てみましょう。
第二期は18世紀前半で、この頃になると二神の男女の別が明確になり、酒の徳利や盃を持った二神、徳利は男根、盃は女陰を象徴しているのであろう。
半肉彫りの像の背には仏像と同様の舟型光背がついている。」
うーん、舟型光背ではありますけど・・・。

第三期の特徴は。
18世紀中頃からで、直立した二神の像に乱れが出てくる。
互いに肩を組み、男神の右手と女神の左手が前で握り合うのが多く、光背の形に代わって石殿の屋根を表現したのも多くなる。
ときには、榛名町中室田の宝暦七年(1757)銘の接吻道祖神、倉渕村三之倉の宝暦十年(1760)と六合村荷付場の天保十四年(1843)などのように、二神が重なり合う抱擁像のものまである。
江戸の町人文化の爛熟期に地方農村でもこのような道祖神が出現したのである。」
ほー、手を握り合うのは第三期ですか。
ということは、「田中の道祖神」は一期から三期までの特徴が混然としているということでしょうか。
うーん・・・。
それとも、分類の方がちょっと怪しいのかな?

因みに、第三期でかなり奔放な性的描写を帯びてきた双体道祖神も、第四期に入ると落ち着きが出てくるようです。
第四期は十八世紀末から十九世紀に見られるもので、庶民への文字の普及と国学の発展を背景に、文字塔が多くなり、雲に乗る天孫降臨型が出現する。
この場合は、男神は矛を持ち、女神は巫女の姿をしている。
これらの像が神社境内などに多いのは、明治期の神社合併により集められたので、元来はいずれも村外れの路傍に立てられていたのである。」

看板には、「双体道祖神は関東地方に多くみられる」とありますが、調べてみるとそうでもなさそうです。
最も多いのは長野県で、次いで群馬県、神奈川県
関東でも、埼玉、栃木、茨城はほとんど見られません。

(出典:石田哲弥氏編「道祖神信仰史の研究」より)

群馬県内で言うと、吾妻郡、群馬郡、利根郡など北毛に多く見られ、東毛は少ないという傾向があります。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

「田中の道祖神」がある群馬郡内の分布も見てみましょう。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

へ~、道祖神で有名な倉渕村よりも、上里見を含む旧榛名町の方が多かったんですね。


【田中の道祖神】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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