2021年01月10日

史跡看板散歩-214 丸山公園の庚申堂と弘法大師堂

上里見町の国道460号線沿いに、「三共クリーニング店」というのがあります。

その脇の道を南に入って行きます。

180mほど行くと、左に入る細い道があります。


その細道の先はえらい急坂で、空中へ飛び出してしまいそうです。


車が仰向けにひっくり返ってしまいそうな恐怖を覚えながら無事上りあげて、振り返って見るとけっこうな眺めです。


その急坂の上が「丸山公園」です。



この看板の文章、意外と分かりずらいです。
時系列的に整理すると、こういうことらしいです。
ここは昔「雷電神社」だった。
明治二十九年に「蚕影山大神」(絹笠様)を祀った。
青面金剛を祀った「庚申堂」があったが、大正初めに取り壊した。
昭和八年に「庚申堂」を再建した。
昭和十四年に弘法大師像を安置した。
平成十七年に堂宇を新築し「弘法大師堂」とした。
旧「庚申堂」は、移設して「山車倉庫」として使っている。

文久四年(1864)銘のある鳥居を潜って石段を上ると、「蠶(蚕)影山大神」の大きな石碑が建っています。


その左、一段下がった所にあるのが「弘法大師堂」です。

右脇に建つ「弘法大師碑」は昭和八年の銘があるので、「庚申堂」を再建した時に建てられたものでしょう。
碑面には「四國 八十八ヶ所ノ内 弘法大師」と刻まれているのですが、「八十八ヶ所ノ内」とはどういう意味なんでしょう。
ご存知の方、ご教示ください。

ところで昨年の流行語大賞は、コピーライターの小池百合子氏が広めた「3密」でしたが、実はそれより1200年も前に「三密」という言葉を広めていたのが、弘法大師でした。

「3密」は人と人とを近づけないための言葉ですが、「三密」の方は人と仏様を近づけるための言葉です。
身密(しんみつ) 手や指で印を結び仏さまの姿をまねる
口密(くみつ) 口で仏さまの言葉である真言を唱える
意密(いみつ) 心に仏さまの姿を描き瞑想する
(茨城県筑西市 東睿山 金剛寿院 千妙寺のHPより)

閑話休題。

「弘法大師堂」の後ろに、大きな東屋が建っています。


その西側に、お堂の瓦屋根が見えます。

これが、「山車倉庫」になった旧「庚申堂」なのでしょう。

下へ降りて正面から見ると、こんなです。


下へ降りたついでに、東側へ回って「丸山公園」を見てみると、なるほど「丸山」だなと気付きました。


榛名町役場著「榛名町の文化財」に、「上里見藩邸跡」として「丸山公園」の写真が使われています。


と言っても、「丸山公園」「上里見藩邸(神山陣屋)跡」ということではなさそうで、場所については、こう書かれています。
城地は字町南から八幡にかけての一帯にわたり、附属建物は町西、町東に及んでいたようである。
字町通り七四一、七四二番地附近が大手口、陣屋跡は東西五十間(約十五メートル)、南北四十間(約十二メートル)、これを中心に附属建物があったようである。
西に離御殿(後に城代家老居住)、竜門寺(菩提寺、黄檗宗)南に倉庫、八幡神社(守護神、石祠現存)、東南に的場、東に道場、北に武家屋敷・・・」

これだけではよく分からなかったのですが、「里見町誌」「城下町の神山宿」という絵図があり、そこに「陣屋」等の位置が描かれていました。


これらを踏まえて「742番地」を目安に現在の地図を眺めてみると、おおよその位置関係が分かります。


この2つを見比べると、どうやら現在の「丸山公園」は、神山宿絵図に描かれている「八幡神社」のあった所のように見えます。

いつの時代も、人は高い所に神秘的な力を求めるものなのでしょうね。


【丸山公園】


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Posted by 迷道院高崎at 08:09
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2021年01月03日

史跡看板散歩-213 上里見町田中の道祖神

すっかりご無沙汰している間に、年が改まってしまいました。
3ヶ月ぶりの「隠居の思ひつ記」です。

再開第一回は、里見小学校裏の三叉路に祀られている道祖神です。


「田中の道祖神」と呼ばれているようですが、見た目は「檻中の道祖神」です。



延宝四年(1676)の銘があって町内最古の道祖神らしいですが、県内最古のものは倉渕村権田の寛永二年(1625)だそうです。
近藤義雄氏著「上州の神と仏」によると、道祖神の建立時期は四期に大別されるといいます。
第一期は寛永(1624-)~元禄(-1704)期としています。
とすると、「田中の道祖神」はちょうど一期のど真ん中ということになります。

同著によると、この時期の道祖神の特徴はこうだそうです。
自然石を建てて道祖神として祀ってきたが、近世初期から様々な石像が出現してきたとき、道祖神も神仏の姿をした像が求められたのであろう。
そのため、二神とも仏像や神官の姿、ときには三月の節供に飾られる座り雛の形をしたものなどである。
前記倉渕村の県内最古の道祖神は、二神とも地蔵像の合掌した姿である。」

ん?「田中の道祖神」は、その特徴に当てはまらないような気がするんですが、どうなんでしょう。

風化が進んでいるのではっきりしませんが、肩を組んで手を握り合っているように見えます。

第二期の特徴を見てみましょう。
第二期は18世紀前半で、この頃になると二神の男女の別が明確になり、酒の徳利や盃を持った二神、徳利は男根、盃は女陰を象徴しているのであろう。
半肉彫りの像の背には仏像と同様の舟型光背がついている。」
うーん、舟型光背ではありますけど・・・。

第三期の特徴は。
18世紀中頃からで、直立した二神の像に乱れが出てくる。
互いに肩を組み、男神の右手と女神の左手が前で握り合うのが多く、光背の形に代わって石殿の屋根を表現したのも多くなる。
ときには、榛名町中室田の宝暦七年(1757)銘の接吻道祖神、倉渕村三之倉の宝暦十年(1760)と六合村荷付場の天保十四年(1843)などのように、二神が重なり合う抱擁像のものまである。
江戸の町人文化の爛熟期に地方農村でもこのような道祖神が出現したのである。」
ほー、手を握り合うのは第三期ですか。
ということは、「田中の道祖神」は一期から三期までの特徴が混然としているということでしょうか。
うーん・・・。
それとも、分類の方がちょっと怪しいのかな?

因みに、第三期でかなり奔放な性的描写を帯びてきた双体道祖神も、第四期に入ると落ち着きが出てくるようです。
第四期は十八世紀末から十九世紀に見られるもので、庶民への文字の普及と国学の発展を背景に、文字塔が多くなり、雲に乗る天孫降臨型が出現する。
この場合は、男神は矛を持ち、女神は巫女の姿をしている。
これらの像が神社境内などに多いのは、明治期の神社合併により集められたので、元来はいずれも村外れの路傍に立てられていたのである。」

看板には、「双体道祖神は関東地方に多くみられる」とありますが、調べてみるとそうでもなさそうです。
最も多いのは長野県で、次いで群馬県、神奈川県
関東でも、埼玉、栃木、茨城はほとんど見られません。

(出典:石田哲弥氏編「道祖神信仰史の研究」より)

群馬県内で言うと、吾妻郡、群馬郡、利根郡など北毛に多く見られ、東毛は少ないという傾向があります。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

「田中の道祖神」がある群馬郡内の分布も見てみましょう。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

へ~、道祖神で有名な倉渕村よりも、上里見を含む旧榛名町の方が多かったんですね。


【田中の道祖神】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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