2021年01月03日

史跡看板散歩-213 上里見町田中の道祖神

すっかりご無沙汰している間に、年が改まってしまいました。
3ヶ月ぶりの「隠居の思ひつ記」です。

再開第一回は、里見小学校裏の三叉路に祀られている道祖神です。


「田中の道祖神」と呼ばれているようですが、見た目は「檻中の道祖神」です。



延宝四年(1676)の銘があって町内最古の道祖神らしいですが、県内最古のものは倉渕村権田の寛永二年(1625)だそうです。
近藤義雄氏著「上州の神と仏」によると、道祖神の建立時期は四期に大別されるといいます。
第一期は寛永(1624-)~元禄(-1704)期としています。
とすると、「田中の道祖神」はちょうど一期のど真ん中ということになります。

同著によると、この時期の道祖神の特徴はこうだそうです。
自然石を建てて道祖神として祀ってきたが、近世初期から様々な石像が出現してきたとき、道祖神も神仏の姿をした像が求められたのであろう。
そのため、二神とも仏像や神官の姿、ときには三月の節供に飾られる座り雛の形をしたものなどである。
前記倉渕村の県内最古の道祖神は、二神とも地蔵像の合掌した姿である。」

ん?「田中の道祖神」は、その特徴に当てはまらないような気がするんですが、どうなんでしょう。

風化が進んでいるのではっきりしませんが、肩を組んで手を握り合っているように見えます。

第二期の特徴を見てみましょう。
第二期は18世紀前半で、この頃になると二神の男女の別が明確になり、酒の徳利や盃を持った二神、徳利は男根、盃は女陰を象徴しているのであろう。
半肉彫りの像の背には仏像と同様の舟型光背がついている。」
うーん、舟型光背ではありますけど・・・。

第三期の特徴は。
18世紀中頃からで、直立した二神の像に乱れが出てくる。
互いに肩を組み、男神の右手と女神の左手が前で握り合うのが多く、光背の形に代わって石殿の屋根を表現したのも多くなる。
ときには、榛名町中室田の宝暦七年(1757)銘の接吻道祖神、倉渕村三之倉の宝暦十年(1760)と六合村荷付場の天保十四年(1843)などのように、二神が重なり合う抱擁像のものまである。
江戸の町人文化の爛熟期に地方農村でもこのような道祖神が出現したのである。」
ほー、手を握り合うのは第三期ですか。
ということは、「田中の道祖神」は一期から三期までの特徴が混然としているということでしょうか。
うーん・・・。
それとも、分類の方がちょっと怪しいのかな?

因みに、第三期でかなり奔放な性的描写を帯びてきた双体道祖神も、第四期に入ると落ち着きが出てくるようです。
第四期は十八世紀末から十九世紀に見られるもので、庶民への文字の普及と国学の発展を背景に、文字塔が多くなり、雲に乗る天孫降臨型が出現する。
この場合は、男神は矛を持ち、女神は巫女の姿をしている。
これらの像が神社境内などに多いのは、明治期の神社合併により集められたので、元来はいずれも村外れの路傍に立てられていたのである。」

看板には、「双体道祖神は関東地方に多くみられる」とありますが、調べてみるとそうでもなさそうです。
最も多いのは長野県で、次いで群馬県、神奈川県
関東でも、埼玉、栃木、茨城はほとんど見られません。

(出典:石田哲弥氏編「道祖神信仰史の研究」より)

群馬県内で言うと、吾妻郡、群馬郡、利根郡など北毛に多く見られ、東毛は少ないという傾向があります。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

「田中の道祖神」がある群馬郡内の分布も見てみましょう。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

へ~、道祖神で有名な倉渕村よりも、上里見を含む旧榛名町の方が多かったんですね。


【田中の道祖神】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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