2020年10月18日

史跡看板散歩-212 中里見の御嶽山

中里見町「パワーセンター うおかつ」の道向こうに、「中里見農機」というお店があります。
その脇の、私有地のような道を入って行きます。


坂の上に道がありました。


道を左に行くと、前方右側に赤い幟旗が見えます。


史跡看板も建っていました。



看板の写真を見ると、広い場所に大きな「御嶽山」などの石碑が建っているようなんですが、どこを見渡しても見上げても、それらしいものはありません。
これは誰かに聞かなくてはと思い、坂道を下りかけたら、「中里見農機」のご主人らしき人が庭作業をして居られました。
「すみません、そこに御嶽山という看板はあるんですが、石碑はどこにあるんでしょう。」とお聞きすると、
「あー、上に上がる道があるんだけどね。」と言いながら、作業の手を止めて史跡看板の所まで来て下さいました。

幟旗の所を指さしながら、
「ここから上るんだけど、今は草が繁っちゃってて。」
「え!ここが道なんですか?」

ってくらい、草が生い繁っていました。


すると、中里見さんは草をかき分け、引き千切りながら、道をつけて先導してくれました。
おかげさまで、どうにか後をついてしばらく上ると、ぽかっと明るくなる所へ出ました。
赤い幟旗の一部も見えます。


あ、ありました、石碑が。


こりゃ、案内して頂かなかったら絶対に辿り着けません。
ただ、中里見さん曰く、「八十八夜の前には、きれいに草を刈るんだよ。」ということです。

ちょっと急な石段の上に、「御嶽山神社」「八海山神社」「意波羅三社」の石碑が建っていました。



中里見さんのおかげで辿り着けた、「中里見の御嶽山」でした。

ところで、史跡看板のあるこの道、やけに真っ直ぐです。


「この道は、昔の街道か何かだったんですか?」と、中里見さんにお聞きすると、
「水道みちってんだいね。」と仰います。
神山「春日堰」から剣崎の浄水場までの送水管が埋まってるんだそうです。

ただ、下里見の城山稲荷の土砂崩落の他、中里見でも漏水が発生したんで、現在の送水管は国道406号の道路下に埋設してるんだそうです。
でも、「水道みち」の下には、今でも使われなくなった送水管が埋まったままになってるのだとか。

いろいろ教えて頂きました。
中里見さん、ありがとうございました。


◇◇◇ところで、皆様にお知らせがあります。◇◇◇
「隠居の思ひつ記」は、しばらくの間
お休みをいただきます。
再開の節は、またご贔屓にお願い申し上げます。


【中里見の御嶽山(史跡看板)】


前の記事へ<< >>次の記事へ
  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2020年10月17日

史跡看板散歩-211 中里見町光明寺の勝軍地蔵尊堂

中里見町の国道406号線沿いにある、「茶々テラス」
その脇の道をずーっと入って行きます。


200mほど行くと、「光明寺」の鳥居があります。


「黒門」と呼んでいるようです。


「黒門」の右手前に建っているお地蔵さんは「榛名町指定重要文化財」、現在は「高崎市指定重要有形民俗文化財」となっています。


「黒門」を潜った左側には、大きな「馬頭尊」碑など、いろいろな石造物が並んでいます。


里見氏累代が祀られていた「智泉院」の旧跡だという石柱と看板も建っています。



山門を潜った左奥にあるのが、「勝軍地蔵尊堂」です。



ほほー、「将軍地蔵尊」榛名山から飛び去り、その光明が留まった所に建立したのが「光明寺」ということですか。

その手前に、ちょっと錆が進んでますが、「新田義貞公旧里碑」と書かれた標柱が建っています。


碑の篆額では「新田公旧里碑」となっています。


明治二十三年(1890)に地元の歴史研究家・里見水戸之介が、新田義貞の郷里である里見郷に、それを顕彰する一片の石標もないことを憂い、東奔西走して建碑に至ったそうです。

境内には、里見氏の塋域(墓域)があります。


その玉垣の前に、「茶聖利休居士太祖之塋域」と刻まれた石柱が建っています。


利休の祖先が、里見氏だという訳です。
この件については、グンブロガーの荻原悦雄氏が詳細な記事にまとめていますので、そちらをご覧ください。
   ◇茶聖千利休

また、里見義成氏著「新田氏支流里見氏」には、そのことが分かる系図が掲載されています。
  ◇毛野中世の武士団と千利休への系譜

そして、中曽根康弘元首相のこんな句碑も。
  「くれてなお 命の限り 蝉しぐれ」

今日、1億9千万円を超える費用をかけて、内閣と自民党の合同葬が執り行われました。
その費用の半分は、税金から支出されるそうです。
  「くれてなお 命の果てに 金しぐれ」
と、詠みたくなってしまいます。

中曽根康弘氏の祖父・中曽根松五郎は、里見村神山に材木店「古久屋」を設け、一代にして巨万の富を築きました。
その子・貫一は二代目松五郎を襲名し、高崎に店舗並びに製材工場を設け、これまた親に勝る業績を収めました。
その二代目松五郎の次男が、康弘氏という訳です。(里見村誌)

なかなか侮れぬ、里見町です。


【光明寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:02
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2020年10月16日

史跡看板散歩-210 高浜の駒形神社

高浜郵便局の東200mほどの静かな坂の途中に、「駒形神社」はあります。




鳥居を潜ると、落ちそうな笠をかぶった石灯籠が左右に建っています。


不思議なことに、左側のは寛政十二年(1800)、右側のは明治二十五年(1892)の奉納です。


石灯籠はもう一セット、石段の両脇にもありまして、これは天明二年(1782)です。


面白くなって、社殿前の石灯籠の奉納時期も見てみると、平成六年(1994)。


賽銭箱は平成十五年(2003)。


立派な手水鉢は平成十九年(2007)、鳥居はその翌年に奉納されてます。


そして今年は、ハチさんが奉納の真最中でした。

邪魔をすると怒られそうなので、早々に退散いたしましょう。

こちらの仲睦まじくしているお二人にも、お邪魔だったでしょうか。

「駒形神社」だけに、「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。」なんて言われそうで。

「駒形神社」を出て坂道を下っていると、石垣の上に妙なものが建っているのが目に入りました。


向こう側へ回ってみると、大きな「忠霊塔」が建っています。


台石には、「榛名町久留馬地區英霊合祀者氏名」として、台湾事変、日露戦役、日支事変、太平洋戦役で亡くなった方の名前がびっしり刻まれています。


坂道から見えた妙なものは、「忠霊塔」の左にありました。

中央に「彰忠碑」、その手前に左右一基づつの石碑が建っています。
きっと以前は鬱蒼とした場所だったんでしょう、途中から伐採された太い木の幹が何本も突っ立っています。
これが、奇妙なものの正体だったんですね。

左の碑は、「彰忠碑建設芳志録」


右の碑は、「従軍者」となっています。


その裏面を見て、「あー。」と思いました。

こう刻まれています。
大東亜戦役終戦以來十有餘年、第六小学校校庭に埋没せられし彰忠碑を此処に再建し、出征兵士の忠誠を永遠に顕彰せんとす」

ここの「彰忠碑」も校庭に埋められていたんですね。
豊岡の「常安寺」の所にある「忠魂碑」もそうでした。

自分よりも、家族よりも、君への忠を求められた時代の証です。


【駒形神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 17:02
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2020年10月14日

隠居の控帳 ニーメラー牧師の後悔

マルティン・ニーメラー
ドイツの福音主義神学者、古プロイセン合同福音主義教会、ヘッセン=ナッサウ福音主義教会(ルター派)の牧師、反ナチ運動家。
ナチスの弾圧とそれに対する抵抗運動を描いた詩『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』の作者。
(Wikipedia)

「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。
私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は労働組合員ではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

ミルトン・マイヤー著「彼らは自由だと思っていた」では。
ニーメラー牧師は何千人もの人々の前で、彼自身のことを(あまりにも謙虚に)こう語った。

ナチ党が共産主義者を攻撃した時に、私は多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、社会主義者でなかったから何もしなかった。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人などが攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。
私は牧師だったから行動した。
しかし、それは遅すぎた。」

戦前、日本でも学者たちが弾圧を受けた歴史を持つ。
「学問の自由とは何か?」より(Choose Life Project)

ニーメラーは1937年ナチスに逮捕され、1945年まで強制収容所に収容される。
解放後の1946年にゲッチンゲンで説教した時の言葉。
私には罪がある。
なぜなら私は1933年になっても、ヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。
私は強制収容所においても罪を犯しました。
なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした。

「彼ら」に投票し、「彼ら」に沈黙する、「日本のニーメラー」にだけはなりたくない。


  


Posted by 迷道院高崎at 16:07
Comments(2)◆隠居の控帳沈思黙考

2020年10月11日

史跡看板散歩-209 下里見町の頼朝の腰掛け石

国道406号の下里見交差点から北へ320mほど行った所に、下里見町北村区公民館があります。
駐車場入り口に、大きな「庚申塔」が建っています。



その先にあるのが、「北村八幡宮」の石祠です。


この石祠の後ろに、「頼朝の腰掛け石」というのがあるようです。


あ~、これかぁ。

ふーん・・・。

ちょっと物足らない気分で道路に戻ると、反対側に旧道らしい斜めに入る道が見えます。


興味をそそられ、行ってみました。


少し行くと、四つ辻の角に隠れるように大きな石造物が建っています。


万延元年(1860)の「庚申尊」の塔でした。


そのまた陰に、小さな「馬頭観世音」の文字塔が2基隠れています。


道はこの先、鉤の手に曲がって新しい道路に出ますが、たぶん昔はこのまま烏川に出たんでしょう。


明治四十年(1907)の地図があります。
やはり鉤の手に曲がって烏川を渡っている道(赤く色を付けた道)があります。


昔は、下里見村と烏川対岸の久留馬村とを行き来する道は、大変不便だったようです。
下里見交差点の南に建っている碑に、現在の道路を整備するまでの経緯が刻まれています。

里見村大字下里見ヨリ烏川ヲ隔テ對岸久留馬村ニ通ズル里道ハ頗ル狭隘ニシテ 中川原橋ノ如キハ夏季年々流失ノ厄ニ遭ヒ 其ノ都度交通途絶シ 西ハ神山森下橋ニ 東ハ町屋或ハ遠ク君ヶ代橋ヲ迂回スル等 甚シキ不便ヲ被リ來リタルハ 最モ遺憾トスル所ナリキ」

大正十五年(1926)地元村会議員5名の起案により、新しい道路と橋の工事が始まり、昭和四年(1929)に竣工したとあります。
偶々村會議員富澤好太郎 中島良太郎 悴田隆平 富澤幸作 中曽根周作ノ五氏ハ深ク之ヲ慨シ 大正十五年二月相謀リテ 専ラ地方発展ノ目的ヲ以テ 縣道高崎間野線下里見ヲ起点トナシ 對岸久留馬村ニ通ズル道路橋梁ヲ完全ニ改築シ 一方板鼻町ニ通ズル町村道ヲモ修理ヲ加ヘ 重要路線トシテ將来縣道ニ編入セラルベキ計畫ヲ樹テ 之ヲ村會ニ諮リ全員ノ賛成ヲ得タルニヨリ 直ニ縣土木課竝ニ關係町村ニ向ヒ協賛ヲ仰ギ 只管事業ノ達成ニ努メラル
幸ニ縣當局ノ認ムル所トナリ 村営工事トシテ執行スルコトニ決定シ 昭和二季十二月工ヲ起シ昭和四年三月竣工ヲ告グ(略)」

工事費は県及び各村そして有志者の寄付で賄われ、地元住民百人余りの夫役もあったと刻まれています。
道路橋梁設計総工費金二萬二千余圓及ビ用地三段三畝余歩ヲ用シ 其ノ内金六千四百圓縣費補助 久留馬村ヨリ金二千圓ノ寄附ヲ受ケ 里見村ヨリ金五千圓ヲ支出シ 其ノ他ハ地元近鄕關係有志者ノ寄附及ビ地元住民ノ夫役亦百餘人ノ寄附ニ依レリ(略)
其ノ後本路線ハ所期ノ目的ヲ貫徹シ 碓氷群馬連絡樞要道路ト認メラレ板鼻室田線ト稱ヘ 昭和六年十二月縣道ニ編入セラル
扔テ茲ニ道路梁改築完成記念トシテ工事ノ概要ヲ勒シ寄附者芳名ハ碑蔭ニ刻ミ  永ク後世に傳ヘントス」

道路橋梁改築記念碑
昭和八癸酉年□月

頼朝さんがこの辺を通った頃は橋もなかったでしょうから、やっとの思いで川を渡って、疲れ果てて道端の石に座り込んだんでしょうね、きっと・・・。


【頼朝の腰掛け石】

【板鼻室田線道路橋梁改築記念碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2020年10月04日

史跡看板散歩-208 下里見町仲通りの道祖神

国道406号の下里見交差点のすぐ北、里見川のほとりに「仲通りの道祖神」というのが建っています。




後ろは「富久樹園」の駐車場です。


大きなトチノキが、たわわに実を付けていました。


何となく物足らない思いで下里見交差点に戻ると、「ぴんころ地蔵尊」という看板が目に入ったので、行ってみました。


急な坂道を150mほど上ると「城山稲荷」という大きな鳥居があり、その先にも小さな鳥居が並んでいます。


並んでいる鳥居を潜って・・・、

さらに石段を上ると「城山稲荷」の社殿があり、その左にあるのが「ぴんころ地蔵尊」のようです。



「ぴんころ地蔵尊」の説明板を見て、「城山稲荷」という名前の由来も分かりました。
「里見城」の鬼門除けだったんですね。

それから、思い出しました、昭和四十九年(1974)の土砂崩落災害。
死者6人を出すという大災害でした。


台風が来た訳でも、雨が降り続いた訳でもない、カラリと晴れ渡った10月6日(日)の朝7時半ごろの出来事でした。
一ヶ月ほど前から、山肌から水が滲み出ていたが、崩落直前はその量が多かったといいます。

崩落現場の上には、剣崎・若田浄水場への市上水道の導水管が埋設されていました。
その導水管の他にも、榛名町の石綿製配水管も埋設されており、山頂には配水槽も設置されていました。
いずれかの設備からの漏水が、斜面の土砂を緩めて崩落させたものと思われます。

その時、奇跡的に崩落を免れたという「奥の院」は、一段高い所に祀られています。



崩落した斜面は、現在コンクリートで補強されています。


その上に社殿を再建したが、その後、再度の土砂災害があったとあります。

しかし奇跡的に崩落を免れ、「落ちない稲荷」という新たな御神徳が加わったというのですから、ま、よかったですね。

「ぴんころ地蔵尊」も、コロナ除けの御神徳を加えて「ぴんコロナ地蔵尊」と呼ぶのはどんなもんでしょう。


【仲通りの道祖神】

【ぴんころ地蔵尊】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:29
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板