2020年09月27日

史跡看板散歩-207 下里見中原の道標

国道406号下里見交差点から板鼻方面へ800mほど行くと、「アルベロ」という割と有名なジェラートショップがあります。

そのすぐ南の四つ辻に、「下里見中原の道標」が建っています。




道標に刻まれた文字は、ちょっと判読しにくいです。


石筆で擦ってみましたが、文字が二重に刻まれているということで、やはり読みにくいのですが、これはこれで珍しくて面白いかも知れません。


すぐそばに、「原水道記念」という石碑が建っています。



写真ではちょっと読みにくかったので、文字を起しておきましょう。
原水道記念
アイデアマン
 マルブン(富沢文司)さんの夢実現
このあたり一帯を「里見っ原」と言って名産「里見梨」の本場です。
丘陵地帯のため昔から一摘の水も出ず、当時は飲み水を初め梨づくりに必要な水を得るには、下の方からリヤカーなどで引き上げるしかなく、それは大変な苦労でした。
何としてもこの地に水をと一念発起のマルブンさん、県・町当局に日參し、遂に水道敷設事業(予算百二十万円)が認められました。
梨生産者が一丸となって人力による工事に当り、昭和三十七年夢のような全梨園水道がひかれました。
以来里見梨は景勝榛名の山麓で豊穣に恵まれておりますが、地域の人々はこの大事業を導いた今は亡きマルブンさんを懐かしく偲んでおります。
     昭和五十六年春
      榛名町農協組合長
      榛名町広報委員
織田仲次郎(文・書)

いい石碑だなぁ。


【下里見中原の道標】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年09月20日

史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

「上大島町公民館」の所が、むかし「安養寺」があったという場所です。


「安養寺」については、「里見村誌」にこう書いてあります。
明治二十三年の夏、落雷にて出火、全焼した。
その時本尊の阿弥陀如来の像一体と不動明王像一体とを辛うじて安泰ならしめたるも、他の寺宝等悉く焼失し、従って古記録等一切なく、世代、由緒等も尋ねるに由無い。
明治四十二年に、同宗の高崎市玉田寺へ合併、本尊阿弥陀如来及び不動明王像を同時に安置した。
檀家は上大島一円にて約五十軒あり、現在は本堂跡に間口五間に奥行き三間半、木造平屋一棟あり、上大島の公会堂となっている。
広い庭はそのままで庫裡の跡は耕地となっている。」

さらに、「参考雑記」として、
口碑によれば、焼失する前の建物は広大な本堂に、西側には不動堂があり、東側に庫裡があり、境内には考(高?老?)樹鬱蒼として荘厳の気に打たれる程の構えであって、古く新田氏の領地であった頃の建立といわれている。」
とあります。

そこに建っているのが、高崎市指定重要文化財「安養寺跡の笠塔婆」です。



看板に、笠塔婆の願主「沙弥西佛は安養寺ゆかりの在家信者と思われる」とありますが、これも諸説あるようで。
「榛名町誌 通史編下巻」には、こう書かれています。
新田義貞が少年の時、この沙弥に学んだといい、後に義貞は同寺を壮大に再建したという伝承がある。」

ところが、同じ「榛名町誌」でも「民俗編」では、新田義貞が師事したのは「沙弥西佛」とは書いてません。
往時、安養寺には名僧がおり、幼少の小五郎はその名僧に師事して学問、修養に励んだと伝えられている。」
後に新田義貞となる里見小五郎は、里見氏第六代里見城主里見大炊介義忠の第三子(一説に第五子)として里見郷に生まれ、新田宗家朝氏に嗣子がなかったため養子となり、新田小太郎義貞に改めたという言い伝えがある。

「里見村誌」では、こうです。
境内に現存する石仏に文永元年四月十九日の文字と、判然とは読めないが正面に「広宝妙録西仏」、右側に不動明王浮刻、左側に大日如来らしい刻がある。(略)
古く里見城のあった頃、里見小五郎(後の新田義貞)が、幼時この寺の博学の名僧に師事したとも伝えられている。」

ま、火災で記録がすべて焼失したというのですから、仕方ありませんね。

公民館の周囲には、古い石造物が残されたままになっています。



でも、最近建立されたものもいくつかあります。



地域の人には、まだ「安養寺」であるのでしょう。


【安養寺跡の笠塔婆】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2020年09月13日

史跡看板散歩-205 町屋町の八坂神社

「町屋井堰之碑」から町屋橋方向へ60mほど行った左側に、注連縄の張られた覆屋があります。


これが「八坂神社」だと言うのですが、祀られている石には何も刻まれていません。



ま、看板にも「神社とは認められない路傍の祠的存在」と書かれてはありますが。


看板の文章を読んでいると、頭がこんがらがってきます。
インドの神の「牛頭天王」と同じ神とされる「須佐之男命」を、朝鮮新羅国から京都に勧請して祀ったのが「八坂神社」だと言うんでしょ?
いやいや、「須佐之男命」朝鮮から勧請した神様って、そんな馬鹿な、もともと日本の神様でしょ。

ところが、その「須佐之男命」朝鮮に居たということが、「日本書紀」に書かれているんです。
「一書に曰く」(ある書によると)という前置き付きではあるのですが。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)
其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひきい)て、
新羅国(しらぎのくに)に降到(あまくだり)まし於(て)
曾尸茂梨(そしもり)(の)(ところ)に居(ま)します。


つまり「須佐之男命」は、その乱暴な所行によって高天原から追放されて、新羅国(古代の朝鮮半島南東部にあった国家)の「そしもり」という所に居たと書かれています。

韓国語で「そし」「牛」「もり」「頭」にあたり、韓国の江原道春川には「牛頭山」という山があって、そこでは熱病に効果のある栴檀(せんだん)が採れたことから、この山の名を冠した神が信仰されてきました。(八坂神社編「八坂神社」)

この二つの話を合わせると「須佐之男命」「牛頭天王」ということになります。

それが、なぜ「八坂神社」の祭神になったのかということですが。
「八坂神社」のある所は「八坂郷」と言って、「八坂造」(やさかのみやつこ)という人が住んでいたそうです。
この「八坂造」の祖先は、「新撰姓氏録」「狛国人」と書いてあって、「狛」(こま)=「高麗」(こま)で、朝鮮半島から来た人だという訳です。

さらに言えば、「八坂神社」は明治以前「祇園社」と言っていたそうです。
この「祇園」というのは「古代インドの舎衛国(しゃえこく)にあった、陀太子(ぎだ・たいし)の樹だそうで、そこに建てた「精舎」(僧院)が「祇園精舎」なんですって。

ということで、「インド」「朝鮮」「日本」「須佐之男命」「牛頭天王」、そして「八坂神社」の関係が何となくすっきりしてきました。

最後に、「八坂神社」「悪疫防除」のご利益についてですが。
京都の「八坂神社」の西楼門を潜ると、正面に「疫(えき)神社」というのがあります。

これは、厄除の神として「蘇民将来」(そみん・しょうらい)を祀っているそうですが、ここにも「須佐之男命」が関わっています。

長崎県神道青年会の作った動画をご覧ください。

という訳で、「蘇民将来」に厄除の方法を教えたのが「須佐之男命」だった訳です。

これで、看板に書かれている事柄が全てつながったような気がします。

町屋町には昔から室田街道が通っていて、大勢の旅人が行き交います。
疫病や災厄が入って来るのを防ぐ「賽の神」として、大きな石に「八坂の神」の力を念じ、大切に祀られてきたのでしょう。


【町屋町の八坂神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年09月06日

史跡看板散歩-204 町屋井堰之碑

「諏訪神社」から街道へ出て「町屋橋」の方へ少し行くと、「宝福寺」の前に出ます。

そこに、「町屋井堰之碑」が建っています。

史跡看板もそこに建っているのですが、私の悪い癖で、その隣のお堂の方に気がいってしまうのです。


特に、そのお堂の通りに面して掲げられている看板に。

さて、これはいったい何の看板なのか。
地元の商店名を並べてあるのかなと思いましたが、県外の店もあれば個人名もあります。
お堂を建てた時の寄進者なんでしょうか。
描いてある絵も、茄子なのか、唐辛子なのか、インゲンなのか・・・。

いい暫く看板を眺めていたのですが、そうしていると不思議なもんで、うっすらと文字が見えてきたのです。

「・・・外燈建設・・・」と読み取れます。

なるほど、絵は外燈のランプとその明かりを表現しているようです。
きっと、この通りに外燈を建設した記念に、その寄附者か何かを掲示した看板なんでしょうね。

きっともうすぐ退色して読めなくなってしまうでしょうから、今の内に書き残しておきましょう。
丸千青物店 沖町
薫風園 観葉植物
小川美術染物 町屋町
岡田正太郎
建設業
町屋町
広瀬洋服店 町屋町
櫻井商店 町屋町
大塚養魚場 町屋町
クリーニング店織茂   沖町
湯浅二郎 東京新聞
浦野畜産 箕郷町
可ん寅 名古屋
千曲社
高崎出張所
長野県
五十鈴製絲
前橋出張所
三重県
木村屋パン店 市内本町
中山房吉 熊ケ谷市
須田屋洋品店 沖町
住吉屋菓子店 沖町
広瀬農材店 沖町
十一屋酒店 沖町
江刕屋商店 沖町
大久保薬店 沖町
魚広 沖町
清水自転車店 沖町

お堂は「観音堂」だそうで、その脇に隠れるように石造物が建っています。


ふ~ん。

あ、忘れてました「町屋井堰之碑」でした。


「町屋井堰」というのは、町屋町への用水の取水堰のことらしいです。
ただ、「コンクリート製の井堰」というのがよく分かりません。
どんなものか見てみたいと思ったのですが、取水口の場所だという「町屋町字大笠43番地」というのも分かりません。

「宝福寺」近辺のお宅を訪ねてお聞きしたのですが、みなさんご存じないと言います。
4軒目のお宅で、ようやくご存知の方がいらっしゃいました。
「烏川の土手をずっと上流へ行くと、川へ下りる道があるんだよ。
大きい銀杏の木の所にある。」

言われたとおり、土手を上流へ向かってしばらく歩いたのですが、それらしい所はありません。

畑作業している方に、もう一度お聞きしました。
「あぁ、もっとずっと先だよ。
だけど、コンクリートの四角い桝があるだけだよ。
それに、ロップが張ってあってそこまで行けないよ。
造園業の人の私有地になってるし。」

ということなので、この日は行くのを諦めました。

家に帰って来てから、中島正義氏作成の「高崎の字図」を見てみたのですが、「大笠」という字はありません。
ただ、「大サカ」という字が町屋町の外れ、まさに烏川の上流にあります。

もしかすると、ここが「大笠」なのではないかと思いました。

そう思ったら、もう矢も盾もたまりません。
翌日、その近くまで車で行き、土手から下りる道を見つけて下りてみました。
すると、コンクリートの枡がありました。
これが「井堰」か?
水路もあって、町屋町の方向へ流れています。

一瞬喜んだのですが、どう見ても、あの大きな記念碑を建てるほどの代物ではありません。
それに、川からも離れすぎています。

もっと川の近くまで行ってみようと、木々の間を進んで行くと、たしかに立ち入り禁止のロープが張られていました。
しかも、胸ほどの高さの草が生い茂っていて、進むことができません。

しかたなく土手上に戻って来たものの、どうにも諦めきれずに、大きく迂回してみました。
すると、遠目に水色の水門のようなものがチラッと目に入りました。
土手を下りて、本当はいけないのかも知れませんが、桃畑の中を進んで行くと・・・、なんと、あるじゃありませんか!

伐り倒そうとしたのか斧痕の残る銀杏の木の向こうに、水門のハンドルの付いたコンクリートの枡が。
間違いありません。

上から覗くと、けっこう深くて、井戸のようです。
だから「井堰」なんですね。


「井堰」のすぐ向こうは、烏川です。



取水するための立派な堰堤がありました。


「町屋井堰之碑」から直線距離で1kmちょっと、ようやく探し当てた「町屋井堰」でした。


【町屋井堰之碑】

【町屋井堰】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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