2020年09月13日

史跡看板散歩-205 町屋町の八坂神社

「町屋井堰之碑」から町屋橋方向へ60mほど行った左側に、注連縄の張られた覆屋があります。


これが「八坂神社」だと言うのですが、祀られている石には何も刻まれていません。



ま、看板にも「神社とは認められない路傍の祠的存在」と書かれてはありますが。


看板の文章を読んでいると、頭がこんがらがってきます。
インドの神の「牛頭天王」と同じ神とされる「須佐之男命」朝鮮新羅国から京都に勧請して祀ったのが「八坂神社」だと言うんでしょ?
いやいや、「須佐之男命」朝鮮から勧請した神様って、そんな馬鹿な、もともと日本の神様でしょ。

ところが、その「須佐之男命」朝鮮に居たということが、「日本書紀」に書かれているんです。
「一書に曰く」(ある書によると)という前置き付きではあるのですが。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)
其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひきい)て、
新羅国(しらぎのくに)に降到(あまくだり)まし於(て)
曾尸茂梨(そしもり)(の)(ところ)に居(ま)します。


つまり「須佐之男命」は、その乱暴な所行によって高天原から追放されて、新羅国(古代の朝鮮半島南東部にあった国家)の「そしもり」という所に居たと書かれています。

韓国語で「そし」「牛」「もり」「頭」にあたり、韓国の江原道春川には「牛頭山」という山があって、そこでは熱病に効果のある栴檀(せんだん)が採れたことから、この山の名を冠した神が信仰されてきました。(八坂神社編「八坂神社」)

この二つの話を合わせると「須佐之男命」「牛頭天王」ということになります。

それが、なぜ「八坂神社」の祭神になったのかということですが。
「八坂神社」のある所は「八坂郷」と言って、「八坂造」(やさかのみやつこ)という人が住んでいたそうです。
この「八坂造」の祖先は、「新撰姓氏録」「狛国人」と書いてあって、「狛」(こま)=「高麗」(こま)で、朝鮮半島から来た人だという訳です。

さらに言えば、「八坂神社」は明治以前「祇園社」と言っていたそうです。
この「祇園」というのは「古代インドの舎衛国(しゃえこく)にあった、陀太子(ぎだ・たいし)の樹だそうで、そこに建てた「精舎」(僧院)が「祇園精舎」なんですって。

ということで、「インド」「朝鮮」「日本」「須佐之男命」「牛頭天王」、そして「八坂神社」の関係が何となくすっきりしてきました。

最後に、「八坂神社」「悪疫防除」のご利益についてですが。
京都の「八坂神社」の西楼門を潜ると、正面に「疫(えき)神社」というのがあります。

これは、厄除の神として「蘇民将来」(そみん・しょうらい)を祀っているそうですが、ここにも「須佐之男命」が関わっています。

長崎県神道青年会の作った動画をご覧ください。

という訳で、「蘇民将来」に厄除の方法を教えたのが「須佐之男命」だった訳です。

これで、看板に書かれている事柄が全てつながったような気がします。

町屋町には昔から室田街道が通っていて、大勢の旅人が行き交います。
疫病や災厄が入って来るのを防ぐ「賽の神」として、大きな石に「八坂の神」の力を念じ、大切に祀られてきたのでしょう。


【町屋町の八坂神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
Comments(2)高崎市名所旧跡案内板