2020年08月30日

史跡看板散歩-203 町屋町の諏訪神社

下大島町の北隣の町が、町屋町です。
右から書いても左から書いても町屋町というのが面白い。

もとは大島村の一部でしたが、家並が揃い、ちょうど「町屋」のようになったので、独立して「町屋村」となり、昭和三十年(1955)に高崎市に入って「町屋町」になったのだとか。(田島桂男氏著「高崎の地名」)

新しい家並のドン突きに鎮座しているのが、「諏訪神社」です。



鳥居の左に、だいぶ風化した双体道祖神が建っています。

台石に何か文字が刻まれているように見えます。
「左」かなぁ、もしかすると道しるべになってるのかも知れません。
石筆で擦ってみると、「左り いた者(は)な」と読めます。

きっと、以前はもっと南の室田街道沿いにあったんでしょう。

鳥居の右には、芸術的な石灯籠。
裏面には「嘉永元年(1848) 申八月吉日 氏子中」と刻まれていますが、火袋だけ新しい材に見えるので、最近修復されてるのかも知れません。


史跡看板は、鳥居を潜って左側に建っています。


社殿もしっかりしていて、建ててからそう年月は経っていないようです。

屋根の造り物がなかなかユニークです。


ちょっと、社殿の中を覗いて見ましょう。

張られている幕に、「昭和五十・・・」と染め抜かれているので、社殿はその頃に修復されたのでしょうか。

気になったのが、本殿の左下に転がっている丸太です。

丸太の向こう側を見られないのではっきり言えないのですが、丸太に竹のタガが巻かれているようなので、花火の筒ではないかと思うのです。
ネットで探してみたら、「花火筒」の写真がありましたが、よく似ています。

町屋町はすぐ近くに烏川がありますから、昔から花火を上げて夏を楽しんでいたのでしょう。

拝殿の天井には、見事な龍が描かれています。

「林雄斎守満」と署名があります。
この絵師は、この近くの本郷村の出身です。
あの有名な、天竜護国寺「並榎八景絵巻」の絵も描いています。

「並榎八景絵巻」は文化元年(1804)に描かれていますから、天井絵もその近辺のものなんでしょう。

社殿の脇に貼り付くようにして、もうひとつ小さなお宮があります。

中は、もぬけの殻のようなんですが。

これが、看板の最後に書かれている「白山神社」のお社なんでしょうか。
不思議なのは、そのお社の真後ろにまるで事件現場のようにトラロープで囲まれたエリアがあるんです。

いったい、何があったんでしょう。

史跡看板に書かれていないことが、すごく気になる町屋町「諏訪神社」でした。


【諏訪神社】


  


2020年08月23日

史跡看板散歩-202 下大島町の春念仏供養地蔵?

「大嶋神社」のすぐそばに、石造物の建ち並ぶ一角があります。



史跡看板には、「春念仏供養地蔵立像」と書いてあります。


「寒念仏」というのは聞いたことがありますが、「春念仏」というのは珍しいな、と思って台座を見ると、こう刻まれていました。
「寒念仏」ですよねぇ。
春はどこから来たのやら。

そもそも「寒念仏」とは、「一年でもっとも寒さの厳しい小寒から立春の前日までの30日間にわたり鉦をたたきながら声高く念仏を称え、仏堂・山内・墓地・街頭などを巡回し報恩感謝を表する念仏。念仏者の寒行ともいえる。」(新纂浄土宗大辞典)
ということで、厳寒だからこその功徳であって、暖かくては有難味も少ないでしょう。

すぐ近くに、お地蔵さまより10年も前に建てられた、宝暦四年(1754)の「寒念仏供養塔」もあります。


その隣には、二基の「馬頭観世音」

大きい方には、「征露役為徴發馬匹供養」と刻まれています。
日露戦争の時に、農耕馬を軍馬として徴発されたんですね。

「寒念仏塔」の後ろには、六角の石灯籠があります。
各面にお地蔵さまが彫られているんですが、その内二面に穴が開いています。

これは、どのように使われた物なんでしょうか。
笠を取って、燈明でも入れたんでしょうか。

その他、やたらとでかい「弐十二夜墖」(二十二夜塔)とか、見事な彫りの「青面金剛像」もあります。


一つだけ、分からない石仏があるんですが、お地蔵さまともちょっと違うみたいで。


ところで、ここはどういう場所だったんでしょう。
「大嶋神社」のすぐ隣ですから、別当寺でもあったんでしょうか。
「念仏塔」「青面金剛像」、「二十二夜塔」などが並んでいるところをみると、村の人が集うお堂があったんでしょうか。

その辺のことが史跡看板に書いてあると嬉しいんだけどなぁ。


【念仏供養地蔵】


  


2020年08月16日

史跡看板散歩-201 大嶋神社

国道406号「下大島町」交差点北の、ガソリンスタンド前の細道を西へ入って500mほど行くと、「大嶋神社」の前に出ます。


史跡看板は、鳥居を潜ってすぐ右に建っています。


前身は屋敷「石神社」で、そこに森田「榛名神社」を合祀してできたのが「大嶋神社」だと書いてあります。
屋敷森田は、隣合う字(あざ)です。


「石神社」と言えば、下豊岡「石神社」「しゃくじ・じんじゃ」と読みますが、ここは何と読んだのでしょう。

近藤章氏が、「高崎の散歩道 第九集」「大嶋神社」について書いています。
大島神社はまた伝えによると石上(いそのかみ)氏の八幡宮ともいわれている。
石上氏は箕輪の長野氏との関係もあり、古代では物部氏の流れも考えられ、八幡の観音塚古墳もこの附近の石上氏の墓にも考えられている。
この附近一帯、古代では石上氏の勢力圏でもあったのか。(略)
この神社も、稲荷様が中世には箕輪城長野氏の守り神となり、武人の神八幡宮に変化し、近代になっては上下大島の部落の神社として大島神社に変身したのかもしれない。」

また、高崎市教育委員会発行「豊岡・八幡の民俗」には、神社合祀の経緯が書かれています。
明治四十一年の県指令によって多くの神社が廃合させられたが、下大島の両社は、維持・管理の為の資産と組織が確立されていなければならないという規定をクリアした為、社格を認められ、相談して両社を石神社の地に新社殿を建てて合せ祠ることにした。(四十一年七月六日、村社石神社と改称同年同月村社大島神社と改称)
四十二年春、棟梁織田米吉(上大島)を選定し建築が始まり、間もなく新社殿は完成したが、四十三年の大洪水で村は大被害を被ったこともあり、竣工式は延び延びになった。
大正六年、災害の復旧もなり村に平穏もおとずれたので、境内地の整理をし、三月二十九日の春祭りの日に八幡宮神主竹林氏のもとに盛大な竣工式典を挙行した。」

いずれの文にも「石神社」にふり仮名が振られていないところをみると、素直に「いしじんじゃ」でいいのかも知れません。
それにしても、大変な経緯があって建立された社殿なんですね。


素朴ながら、格調の高さを感じられる、いい社殿です。

拝殿の中を、覗かせて頂きました。

飾られている写真を拡大してよーく見ると、手前に大勢の人たちが写っているようです。
きっと、大正六年(1917)の竣工式典の時の写真なんでしょうね。

拝殿の右に建っているのは、たぶん「稲荷社」でしょう。


社殿の左にズラーっと並ぶ石祠。
「石神社」「榛名神社」両社の境内社なのかな。


大樹の下の涼しくて静かな「大嶋神社」でした。


【大嶋神社】


  


2020年08月09日

史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

国道406号「下大島町」信号北のガソリンスタンド脇の細道を東へ250mほど行ったところに、「薬師堂」があります。


史跡看板は、大きな欅の木の根元に建っています。


お堂の中に石祠があります。

石祠なんてものは、普通は露天にあるもんですが、こんな立派なお堂の中に祀られているということは、看板にあるように黄金の薬師像が入ってるからなんでしょうか。
見てみたいものです。

その薬師像が、額部小幡羊太夫由来の物だとか、高瀬「袂薬師」だとかいう話も書いてありますが、いま一つ話の筋が分かりません。
「袂薬師」については、「富岡市史 民俗編」にちょこっと出てきます。
上高瀬に袂薬師がある。
昔新居家の祖先が元和の大阪の役に出陣して帰村のとき、何処かで薬師像を得、これを袂に入れてもってきて祀ったので、袂薬師というと伝えている。」
と、もともと出所不明の薬師様です。

看板の最後に書かれている「嗽盥」(うがいたらい)というのがこれなんでしょうが・・・。

これ、「うがいたらい」とは読まないでしょう。

明治十三年(1880)の物ですから文字は右から読むはずですし、刻字は「嗽」ではなく、「漱」です。
「盥漱」の読みは「かんそう」で、意味は「手を洗い口をすすいで身を清めること」だそうです。(デジタル大辞泉)
因みに、「嗽盥(うがいだらい)」「口をすすいだ水を受けるための木のたらい、または木鉢」のこと、とあります。
(日本国語大辞典)

「愚山佐々木溥が書を刻んだ」とありますが、これも刻まれているのは「木泉居士溥」です。

戸籍上の名前が「佐々木溥(ひろし)」、雅号を「愚山」という、江戸末期から明治初期にかけての儒学者がいます。
一般的には「佐々木愚山」と呼ばれますが、まぁいろんな名前を使う人だったようで、「佐々木綱弘」とか「佐々木溥綱」とか、雅号も「愚山」の他「十二峰小隠」「白鳥山人」「天心居士」他にも二、三あるということです。
ただ、調べた範囲では「木泉居士」という雅号は見つかりませんでした。
もしかすると、「盥漱」と刻んだ「手水鉢」を、境内の「木々の中の泉」と見立て、この時だけ用いた号なのかも知れません。

「佐々木愚山」について、「久留馬村誌」にこう書かれています。
佐々木愚山先生、諱は溥、字は子淵、愚山又十二峯小隠とも号した。
文政六年(1823)十一月十一日、仙台で生まれた。(略)
先生、人となり容貌魁偉、身長は六尺近く、音吐清高で、金石から出るような声だった。(略)
性格は純潔精誠で、質素を信条とし、其の生涯は離落不遇、環堵蕭々(かんと・しょうしょう:家が狭く、みすぼらしいさま)、これという程のものは一つもなかった。
しかも先生はこういう環境にいて一向平気で、毫も冥利のために其の志操を動かさなかった。(略)
  先生は以前下野の足利学校の都講であったが、ついで、上野安中藩造士館の教授、仝国七日市藩の儒学教授、房州勝山藩の支領白川の儒学教授、群馬県下神道事務局の講師担当、榛名神社教会本部講師担当、相馬神社相馬講社々長、神宮協会の協賛担当などの諸役につかれ、中教正に補せられた。
弟子は殆んど三千人近くもあり、現今でも所在の明らかなものが五百人もあるということである。
先生の人を教える態度は誠心誠意、忠孝に基づき、実践を期し、恭倹質直を重んじ、文華浮靡(ぶんか・ふび:表面上のみ華やかで実質の伴わないこと)の風を嫌った。(略)
先生の歩くときの態度は、奇観異物が側らにあっても、これをふりかえって見るようなことはせずに、姿勢はいつも正直を保っていた。
そして『姿勢を正しくしなければ、自ら心も正しくならない。』といわれたそうである。(略)
幕末になってから、某藩がその卓識高行を敬慕し、礼を厚くして幣物をとゝのえ、使者を再三つかわして先生を聘して臣下にしようとしたが、先生は固く辞退し、『普天の下、王土に非ざるなし、率土の浜、王臣に非ざるはなし、何ぞ必ずしも臣下たるをなさんや。』といって、とうとう召しに応じなかった。(略)
そこで住居を、上野国群馬郡久留馬村大字本郷村に定めたのである。
先生はいつも時間を惜しんでは読書をし、『夏夜の螢燈、冬夜の雪』といった。」
儒教の基本経典のひとつ「詩経」の一節、「溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣(この空の下に王のものでない土地はなく、地の果てまで王の臣でない人間はいない)」を引き、なぜ某藩の臣下になる必要があるのかと問うた。

そんな「愚山」先生ですが、村人達はこんな風に見ていたようです。
高崎町の市川左近先生と、本鄕村の佐々木愚山先生とは、ともに奇行を以て村里の間に聞こへたり。
特に愚山先生は左近先生に優る奇人として評判ありたり。
村里の人々は能く先生の人となりの眞相を會得せず、ただ奇人として之を見たるが如き感ありたり。」
(上毛及上毛人153号 東山道人著「佐々木愚山先生(上)」より)

どんな奇人ぶりだったのでしょう。
晩年の「愚山」に会ったことがあるという、箕輪町西明屋清水初五郎氏の談話として。
私はまだ年少で、小学校にもあがっておらず、弟子にはなれず、当時二十戸ほどの松之沢を先生が弟子を連れて歩く時、私はそれに加わってついて歩いた。
先生は一般の人と変わっていて、他家に招かれた折、膳部の食い残りは全部持って帰った。
今でも松之沢の年寄り達は、膳部を綺麗に片付けることを、『愚山先生の様だ』と云っている。
昔のことで、茶菓子は黒砂糖、梅干、煮つけなどであった。
先生はそれを白紙に包んで持って帰り、私達に分けて下さった。
分ける仕事は、弟子の浅見宇十郎という人で、その人は後に高等小学校の校長になった。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

食べ物についての話は、方々に残っています。
榛東村の「黒髪神社」神職夫人が祖母から聞いたという話。
食事を供されて食べ余した場合は、汁の垂れるようなものでも、懐紙に包んで袂に入れた。
だから先生の奥さんは、一年中洗濯が大変だったという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

安中藩の代々勘定奉行家だった小林壮吉氏の話。
或る時若侍たちが、愚山は出された物は何でも食べてしまうそうだから、と云って食事の折、とうがらしを山盛りにして添えた。
若侍たちが、ひそかに注視している中で、愚山はポロポロ涙をこぼしながら、平らげたという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

晩年の「愚山」は、本郷村鴫上(しぎあげ)の小幡家へ出張教授していたようですが、小幡家の近くへ来ると必ず咳払いをし、座敷の縁先に立ってもう一度咳ばらいをすると、一礼も一言もなく上がって床を背に座ったということです。
「愚山」は、この小幡家で病中を養われ、明治二十九年(1896)九月十四日、同家で歿し、この地に埋葬されます。

榛名町発行「わが町の文化財」によると、「愚山」の墓は、「本郷北部鴫上(しぎあげ)に旧愛宕神社(明治四十年本郷神社へ合祀らしい)別当寺宝常院(修験宗)墓地があります。この墓地の側ら桃林の中」にあると書いてありましたので、行ってみました。

「宝常院」も今はありませんが、小幡家の墓地入り口に「寶常院顕彰碑」が建っています。


近くの畑の中に、「愚山」と妻・ツル、次女・サダ、三女・トヨの墓が建っていました。


と、ここまで書いてきて「あれ?」と思うのですが。
下大島町の「薬師堂」の薬師像は、元は甘楽郡小幡羊太夫に由来するということでした。
その「薬師堂」の境内に、「佐々木愚山」書の「盥漱」が奉納されていました。
その「佐々木愚山」は、教授先である鴫上の小幡家で歿し、同家の土地に眠っています。
その小幡家は、「寶常院顕彰碑」によると、甘楽郡国峰城主・小幡氏の裔です。
これは、偶然なんでしょうか。

「愚山」歿後3年の明治三十一年(1898)建碑頌徳の話が持ち上がり、門弟だった伊香保の木暮武太夫が資料を提供して、当時貴族院議員の楫取素彦に撰文を依頼します。
撰文は明治四十年(1907)にできあがり、大正二年(1913)「本郷神社」境内に顕彰碑が建立されたのでした。


その「本郷神社」には、鴫上の小幡家が別当職を務めていた「愛宕神社」が、明治四十年(1907)に合祀されます。

何かの糸で結ばれているような気がしてなりませんが、どうなんでしょう。


【下大島町の薬師堂】

【佐々木愚山の墓】

【佐々木愚山顕彰碑(本郷神社)】


  


2020年08月02日

史跡看板散歩-199 物見塚古墳

「若田浄水場」入り口の道向こうに、てっぺんに大きな石の乗った見るからに古墳と分かる塚があります。


「物見塚(休み塚)古墳」という史跡看板が建っています。


「塚に登ると展望が良い」と書いてあるので、登ってみました。


石室の石がむき出しになっていますから、もとの塚はもっと高さがあったのでしょうが・・・。


天井石からの眺望は、まぁ、こんなもんです。

昔は高い建物などなかったでしょうから、きっと関東平野も一望できたんでしょうけど。

看板によると、「物見塚古墳は若田古墳群の中の一つ」とありますが、「高崎市内古墳分布図」を見ると、若田、剣崎、八幡の古墳群のちょうど真ん中に、ポツンと独立しているように見えます。


ま、せっかくなので「若田古墳群」を見に行ってみましょう。
「八幡霊園」内の中央公園に、説明板があります。


中央公園のメインに位置する二つの古墳。

左が「楢の木塚古墳」、右が「若田大塚古墳」です。

「若田大塚」は別名「稲荷塚」とも言うらしいので、墳頂にお稲荷さんでも祀られていたんでしょうか。
旧陸軍の砲台・陣地にも使われていたということです。

近くに「峯林古墳」があります。


園内には、古代住居跡というのがいくつかあります。





「縄文時代の住居跡2」以外はみんな埋められちゃってて・・・。
保存のためと言えばそうなんでしょうが、模造石でも並べて発掘時の姿を見せてもらえないものでしょうか。


【物見塚古墳】

【若田原古墳群】